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第0076話 検地と村高

検地と村高の伸長

 昔から「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺がある。地頭すなわち領主は、「殿様」とも呼ばれ、領民にとってはおっかない存在だった。
 地頭は時折「検地」をし、領地の状況を調査した。それを基準に年貢の割り当てをするのである。
 有賀密夫氏は、検地の結果を克明に調査され、村高の伸長具合から次の3期に区分した。
  • 第一期=増昇期:1601〜1679
  • 第二期=漸増期:1680〜1824
  • 第三期=急増期:1825〜1868 
 この調査結果を一覧表及びグラフに整理してみたのが下である。
 これにより、初期の新田開発については、19世紀の江川代官の時代までは認知されず、布施家の知行は220石のままであったことが判る。
 幕末の40年ほどで鵠沼村の農業は急成長を遂げている。
 これは農業収入の増加を意味し、それによって村民の諸活動も活発化した。
 例えば俳諧などの文化活動、寺子屋などの教育活動、相模国準四国八十八箇所巡礼や皇大神宮例大祭の幟立てなどの宗教活動などである。
 これらについては、いずれ別項を立てて述べる予定だが、明治維新直前より鵠沼の村民は一つのエポックを迎えていたといえるのではなかろうか。
江戸時代における鵠沼村村高の変遷  ※石以下四捨五入 
西暦 和暦 参考資料・記事 村 高 幕府領 布施領 大橋領 寺 領
1601 慶長 6 彦坂代官検地 530 530      
1601 慶長 6 220石が譜代旗本布施孫兵衛重次知行地となる 530 310 220    
1617 元和 3 300石、旗本大橋長左衛門重保知行地となる 530 10 220 300  
1649 慶安 2 大橋重政、采地うち9石余を空乗寺に寄進 530 10 220 291 9
1672 寛文12 旗本大橋氏知行分が重政死亡により上知、幕領(代官成瀬五左衛門重治)となる     
1673 延宝 1 成瀬代官検地 605        
1678 延宝 6 成瀬代官検地 605 394 220   9
1679 延宝 7 成瀬代官検地 605 350 250   9
1694 元禄 7 東海道藤沢町助郷帳 585 356 220   9
1694 元禄 7 東海道藤沢宿役高助郷 605 346 220   9
1702 元禄15 相模国郷帳 615 386 220   9
1704 宝永 1 相州鎌倉高座郡村々年貢割付帳   386      
1725 享保10 東海道藤沢宿助郷帳 605        
1735 享保20 相模国改帳   380 220    
1770 明和 7 東海道宿場仕出帳 605        
1824 文政 7 江川代官支配 665 394 265   9
1827 文政10 組合村高書付 677        
1834 天保 5 相模国郷帳 701        
1843 天保14 領主制知行高書上帳 671        
1855 安政 2 藤沢宿寄場組合村高家数表   412 266    
1868 慶応 4 旧高旧領調帳 756        
1868 慶応 4 官/布施/空乗寺 733 431 293   9
1868 明治 1 旧高旧領取調帳 756 454      
1868 明治 1 空乗寺領=9石分、上知[皇国地誌]     
1869 明治 2 藩知事大久保忠長   454 293   9
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 有賀密夫「近世の鵠沼村と新田開発」『わが住む里』第25号(1992)
 
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