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検地と村高の伸長昔から「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺がある。地頭すなわち領主は、「殿様」とも呼ばれ、領民にとってはおっかない存在だった。地頭は時折「検地」をし、領地の状況を調査した。それを基準に年貢の割り当てをするのである。 有賀密夫氏は、検地の結果を克明に調査され、村高の伸長具合から次の3期に区分した。
これにより、初期の新田開発については、19世紀の江川代官の時代までは認知されず、布施家の知行は220石のままであったことが判る。 幕末の40年ほどで鵠沼村の農業は急成長を遂げている。 これは農業収入の増加を意味し、それによって村民の諸活動も活発化した。 例えば俳諧などの文化活動、寺子屋などの教育活動、相模国準四国八十八箇所巡礼や皇大神宮例大祭の幟立てなどの宗教活動などである。 これらについては、いずれ別項を立てて述べる予定だが、明治維新直前より鵠沼の村民は一つのエポックを迎えていたといえるのではなかろうか。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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