|
寺領と朱印状徳川幕府の右筆(書記役)として、父重保が鵠沼村・大庭村に500石の釆地を受け継ぎ、鵠沼村の地頭となった大橋重政は、大橋流の書道の祖として知られる。重政は、三代将軍徳川家光公の筆の師となった功により、1649(慶安 2)年8月28日、御朱印を項戴した。空乗寺七世慶心法師の時に、大橋長左衛門重政は空乗寺に帰依し、檀徒となった。重政は、御朱印項戴を記念して、采地のうち9石余を空乗寺に寄進し、将軍家光より寺領安堵の御朱印状を賜った。 寺領を安堵された場合、普通は藩主クラスの黒印状が一般的だったが、幕府からの安堵は朱印状で、これは寺格のステータスとしてかなりの価値があったらしい。幕府から朱印状をもらえる寺であれば、住持や社僧総代といった人が将軍の代替わりなどに登城して新たな朱印状をもらうので、名誉なことであったとされる。 大猷院殿家光の朱印状(写)の文言は 相模国高座郡鵠沼村空乗寺領内所之内九石余事任先規寄附之詑全 可収納寺中山林竹木諸役等免除如有来永不可有相違者也 慶安二年八月二十八日 というものである。 現在、空乗寺には御朱印の箱と御朱印状の写し8通が残っているが、御朱印状の本物は残っていない。明治元年に寺領は上知され、寺の財政が緊迫したので、当時の住職がかなり高額で売却してしまったといわれる。 また、空乗寺には下の石上の絵図が保管されている。これを見ると、空乗寺寺領は1箇所にまとまっていたのではなく、数箇所に分散していたことが判る。(この写真では読みにくいが) 人馬先触いま空乗寺に、御朱印状を項戴した当初に、慶心によって調整された御朱印箱がある。それの蓋表に「御朱印・相州高座郡鵠沼村。金堀山空乗寺」、蓋内に「慶安二己丑年十一月十七日・於江戸御城・慶心代頂戴之」とあって、その由緒を物語っている。また空乗寺に人馬先触一通を所蔵しているが、このような優遇を挙ることを得たのも、御朱印項戴としての恩恵であった。いわく、御用二付 空乗寺殿 明十五日従江戸相州藤沢迄被罷通候依之 人足 三人 本馬 弐足 右之通無相違様頼入存候以上 一身田御内 九月十四日 大塚利助印 宿々 問屋中 川々 役人中 空乗寺の御朱印地は、鵠沼字石上にあった。このため、いわゆる「石上渡し」の石上から片瀬村字大源太岸への船渡しは空乗寺が支配した。空乗寺は右の朱印地のほかに、檀越その他からの奉納、寄進などに依る寺地を字藤ヶ谷、同抑原、長久保山その他において田畑山林など数町歩をもっていた。空乗寺は明治維新の際に、さきの御未印地を没収されて、頓に窮乏におちいったが、その際に、空乗寺がどうにかして窮状を切りぬけることができたのは、かつて信檀徒からの寄進によって、 質入れるだけの寺地を持っていたからである。 また空乗寺の領内には石上明神があり、別当了音院(江島寺上ノ坊)が支配したが、この明神は石上部落の鎮守として、村民の信仰が篤かったので、空乗寺第五代了慶は、1690(元禄 3)年これが御供料として畑三反余を寄附し、天下安全の祈梼をなすようすすめている。 江島神社の別当は金亀山江島寺で、下ノ坊、上ノ坊、岩本坊があったが、石神明神は上ノ坊了音院が支配していた。
|