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それらのうち、庚申塔は元禄から明治初期に建てられた。今回は庚申塔について述べてみよう。 庚申塔とは庚申塔(こうしんとう)は、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしのむし)という虫が、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って宴会などをする風習である。 現存する鵠沼地区最古の庚申塔は、1689(元禄 2)年建立の車田の白旗稲荷境内にあるものだが、もともとここに建てられたものかは疑問がある。庚申塔は他の石造物よりも作成された年代が読み取れるものが多く、元禄から文化年間の125年間に90%が集中している。庚申講は現在もわずかに継続されているというが、明治以降に建てられた庚申塔は、3例のみである。 庚申塔の形態は、青面金剛(しょうめんこんごう)像の浮彫を施したものと、文字塔の2種類に大別できるが、宝暦年間(1763年まで)に建てられたものは、車田の白旗稲荷境内と日本精工北角の元禄9年の文字塔以外は全て青面金剛像である。明和元年(1764)以降は急に文字塔が増え、青面金剛像は3体しか建てられていない。 青面金剛とは中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰のなかで独自に発展した尊像である。庚申講の本尊として知られ、三尸を押さえる神とされる。 三眼の憤怒相で、一般には足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(腕が6本)で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ姿で描かれることが多い。頭上の両側に日月、足元には三猿が彫られることが一般的である。 屋根付きの小祠に祀られることが多く、扉は付かない。鵠沼地区の場合、法照寺境内や砥上公園に集められた場合を除き、路傍のものは多く小祠に祀られている。法照寺境内は小田急線敷設や日本精工建設の際、砥上公園は藤沢駅前南部地区区画整理の際に集めて移設されたものである。 他の路傍石造物には例がないが、庚申塔は道標を兼ねるものが見受けられる。鵠沼地区の場合、橘の辻の庚申塔には右側面に「右ゑのしまへ」と彫られている。 庚申講庚申信仰は中国の道教の伝説に基づくものである。人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫(彭侯子・彭常子・命児子)がいて、いつもその人の悪事を監視しているという。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝(「閻魔大王」ともいう)に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められたり、その人の死後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とされるといわれていた。そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、この夜は村中の人達が集まって神々を祀り、その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これが庚申待、それを行う集まりが庚申講である。庚申待を3年18回続けた記念に建立されたのが庚申塔である。庚申講は全国に見られるが、ことに相模国で江戸中期に爆発的に流行したといわれる。鵠沼地区の庚申塔を調べると、このことを裏付けることができる。 60日に一度の庚申講は、村人にとって良いレクリエーションの機会を与え、楽しみの一つだった。鵠沼地区内では現在もごくわずかに行われているが、庚申塔を建てることは行われていない。
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