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第0046話 藤森稲荷の由来

 宿庭の宮崎本家の裏手、東海道本線の南側駐車場奥に、列車の車窓からもよく見えるこんもりした小さな森がある(2011年冬には枝が払われて「こんもりした」という感じは失われているが)。
 これは藤森稲荷の社叢である。
 鳥居の脇に説明板が立てられているので引用しよう。

藤森稲荷の由来

  元弘参年 新田義貞が鎌倉の北条高時を討つ途中、この森に馬を止め 近くの湧水を飲んだことからその武名を慕って本社を建立したといわれている。当時は「藤」の群生地であったことから藤森稲荷と呼ばれ、鵠沼では最古の稲荷様といわれている。

新田義貞軍と鵠沼

 説明板にある「近くの湧き水」というのは、長らく鵠沼の名水として知られていたというが、かなり前に涸れて現在は見られない。また、周辺に野生のフジもない。
 鎌倉討伐の新田義貞軍が、経路の民家に放火しつつ鵠沼付近を通過したのは1333(元弘3)年5月18日ということになっている。旧暦だから換算しないと判明しないが、フジは花盛りだったのだろうか。鵠沼を通過後、新田軍は村岡で北条軍と激戦を交えて打ち破り、津村から日坂(鎌倉高校正門前)を越えて七里ヶ浜に出、有名な稲村ヶ崎を回る奇襲攻撃で鎌倉に攻め入り、ついに鎌倉幕府を滅亡させる。
 蛇足だが、線路の北側、法照寺境内の宿庭町内が祀る稲荷も「藤森稲荷」という。
 また、「鵠沼最古の稲荷」といわれるものには、齋藤家の稲荷という説もあり、こちらは1231(寛喜 2)年というから100年以上も古いことになるが、三河の齋藤一族が鵠沼に來住したのは1246(寛元 4)年というから、若干問題もある。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 [引用文献]
  • 藤森稲荷説明板
 
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