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更級日記と倭瞿麥鵠沼を含む湘南砂丘地帯が文学作品に登場するのは、菅原孝標(たかすえ)女(のむすめ)によって平安時代中ごろに書かれた『更級日記(さらしなのにき)』が嚆矢だといわれている。そこには、「にしとみといふ所の山、繪よく書きたらむ屏風を立て並べたらむやうなり。片つ方は海、濱の樣も寄返る浪の景色も、いみじくおもしろし。もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二三日行く。夏は倭瞿麥(やまとなでしこ)の濃く薄く、錦をひけるやうになむ咲きたる。これは秋の末なれば見えぬといふに、なほ所々はうちこぼれつゝ、あはれげに咲きわたれり。もろこしが原に倭瞿麥の咲きけむこそなど、人々をかしがる。」と出てくる。 「にしとみといふ所」が現在の藤沢市西富(遊行寺周辺)を指すのかは異論もあるようだが、いずれにせよここから山と離れて浜辺の砂道を進むこととなる。いくら少女の足でも「二三日行く」はちとかかりすぎと思うが、この日記は中年に達してから思い出を綴ったものだから、正確さは期待できない。 「もろこしが原といふ所」とは平塚のことだと平塚の方々は信じておられる。大磯には高麗山がそびえ、その麓には高麗神社が祀られていて、渡来人が多く住んだと伝えられているから、もろこしが原と呼ばれても不思議はない。 「倭瞿麥」とは現在の標準和名ナデシコ(学名:Dianthus superbus L. var. longicalycinus)のことで、漢字では撫子と書き、カワラナデシコの別名もある。 ちなみに平塚市の市の花は、このナデシコである。 しかし、「もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二三日行く」ということは、湘南砂丘地帯全体をもろこしが原といったとも読み取れる。平安時代の海岸線は、現在よりも3km程度内陸、すなわち東海道本線のあたりにあったと考えられている。国道1号に沿う茅ヶ崎市本村4丁目には1591(天正19)年の創建といわれる「海前寺」という寺号を持つ曹洞宗寺院があり、16世紀頃までは間近に海を望む位置であったことが想像される。 ナデシコは比較的乾燥を好む植物で、砂丘地帯でもよく自生する。都市化が進む1960年代までは鵠沼でも随所に自生が見られたが、現在はめっきり減少した。 会誌『鵠沼』第3号に川上清康氏が寄せた「私と鵠沼」の中に次の一節がある。 「その頃(※震災前)の海は、真に椅麗で片瀬迄は砂丘と松林が続き、辻堂に近い方では防風が一ぱい採れたものである。又松林には松露を採りに行き、到る処撫子や月見草が咲き、赤い蟹が庭先や台所口をはい廻っていた。」 今日、「やまとなでしこ」というと日本人女性への賛辞を意味し、特に古来美徳とされた、清楚で凛とし、慎ましやかで男性に尽くす甲斐甲斐しい女性像を指す。これは植物としてのナデシコの可憐なピンク色の花の美しさと、ひ弱に見えながら荒れ地でも育つ逞しさからきているのだろう。 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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