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第0026話 皇大神宮

皇大神宮の呼び名

 鵠沼の鎮守である皇大神宮(こうだいじんぐう)にはいくつもの別名がある。
 905(延喜 5)年8月に郷の総社に列せられ、 その時以来「相模国土甘郷総社神明宮」を名乗ったとされ、地元では「神明様」あるいは「お神明様」と呼び慣わしてきた。
 鎌倉権五郎によって拓かれた荘園が、伊勢神宮に寄進され、大庭御厨になると、1117(永久 5)年に「伊勢神領大庭御厨総鎮守相模国土甘郷総社神明宮」 に定められた。
 また、伊勢神宮の文書『天養記』に「伊介神社」とあるのも皇大神宮を指すと思われる。
 境内地面積は3,300坪あり、樹齢数百年にもなるタブノキ、ケヤキなど広葉樹の森林が境内奥に残り、鎮守の森を形成する。カラスが多く生息していたことから「烏森」と呼ばれてきた。そのため「烏森神社」あるいは「烏森のお宮」とも呼ばれる。

造営の記録

 皇大神宮に関する最も古い記録は、第53代淳和天皇の御代、832(天長9)年に御社殿造立の記録があり、同社の縁起では「勧請の時期は更にどれほどさかのぼるべきか詳らかではないが、創建の極めて古いことは明らかである。」とあるが、一応832年をもって創建とする説が有力らしい。
 以後、社殿再建造営の記録は、1055(天喜3)年、1313(正和 2)年、1322(元享 2)年、1585(天正13)年とあるが、以来400年を経た1985(昭和60)年の「昭和の大造営」まで再建造営の記録が見られない。
 昭和の大造営以前の社殿は、確かに古びてはいたが、とても400年前の建物には見えなかった。
 境内の嗽水盥には、1769(明和 6)年11月の銘があり、この辺で再建造営があってもおかしくない。
 1313年、1322年と、10年を経ずして造営が繰り返されたのは、火災にでも遭ったのであろうか。永享年間(1430年代)、盗難により伝承の古記録等を失っているので、それ以前の記録は極めて不完全だという。

祭神と氏子集落

 皇大神宮を名乗るからには天照皇大神(あまてらすすめらおおみかみ)が主祭神であり、相殿に天手力男命(あめのたぢからおのみこと)、天太玉命(あめのふとたまのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、天宇受売命(あめのうずめのみこと)、石凝刀売命(いしこりどめのみこと)を奉斎している。
 皇大神宮の氏子集落は、第0002話で述べた新田山砂丘列以西の「本村」集落で、宮ノ前、上村(かむら)、清水、宿庭(しゅくにわ)、苅田、大東、仲東、原、堀川の9町内である。かつては引地も含まれていたというが、現在、引地は旧羽鳥村の八坂神社の氏子集落となっている。新田と納屋(なんや)は共同して新田宮を造営し、護ってきたが、納屋は現在堀川郷友会に属し、皇大神宮の氏子集落に含まれている。石上は石上神社を祀ってきたが、大鋸諏訪神社の氏子集落ということになっている。
 平安時代以降の動きにつては、後に別項を立てて述べる予定である。この他、下記の[参考サイト]を参照されたい。この項目のほとんどは私が書き込んだものである。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 [参考サイト]
 
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