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石楯尾神社鵠沼皇大神宮の境内には、境内社として石楯尾(いはだてを)神社が祀られている。同神社の創建は、808(大同3)年とされており、皇大神宮創建の832(天長 9)年よりも24年古い。 皇大神宮創建により石楯尾神社が廃されたのではないことは、857(天安元) 年5月20日に石楯尾神社が官社従五位に列せられたことが『列官社』に掲載されていることから判明するという。 この石楯尾神社は、延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)に掲載される神社の一つに数えられている。 延喜式神名帳とは、927(延長5)年にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」とされていた全国の神社一覧である。延喜式神名帳に記載された神社を、「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社または式内社といい、社格の高い神社ということになっている。 相模国の延喜式内社は大社1、小社13の14社がある。大社は相模国一之宮である寒川神社である。
いくつもある石楯尾神社相模国の延喜式内社14社のうち、石楯尾神社以外は1社ないし新旧2社程度で、それも近隣に存在するのだが、石楯尾神社の場合は、我こそは延喜式内社の石楯尾神社なりと名乗る神社が高座郡内に5社、旧愛甲郡(後に津久井郡)内に2社もあり、北端に近い相模原市緑区(旧藤野町)から南端に近い藤沢市鵠沼神明まで散在している。当然、どれがホンモノかという論議が昔から続けられてきたのだが、未だに決定打は出ていない模様である。 最も有力視されているのは、相模原市緑区名倉(旧津久井郡藤野町)の石楯尾神社である。 石楯尾神社の祭神は、石楯尾大神ということは各社共通しているが、名倉の石楯尾神社の社伝では「第12代景行天皇の庚戊40年、日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯 (あまのいわたて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりである。石村石楯は高座郡の県主で当地の住人であった。第47代淳仁天皇の764(天平宝字8)年、先の太政大臣藤原恵美押勝反逆の折、貢の為上京中で押勝の首をとり乱を鎮めた功により高座、大住、鮎川、多摩、都留の五郡を賜ったといわれ、石楯尾神社の保護者であった。」とある。また、この神社には「烏帽子岩」という巨石信仰も伝わっている。当地は丹沢山地北端の桂川(相模川上流部)沿岸に当たり、巨石信仰にはふさわしい。海岸平野の鵠沼では、巨石信仰は生まれないだろう(烏帽子岩なら茅ヶ崎沖にあるが)。 この神社が延喜式内社の石楯尾神社であるとするのに難点があるとすれば、延喜式に高座郡とあるのに旧愛甲郡にあることである。ただし、相模川沿いまで高座郡が延びていたという説もある。先述の「石村石楯は高座郡の県主で当地の住人であった」という社伝はその辺を裏付けるのだろうか。 鵠沼の場合、後から祀られた皇大神宮の境内社となってしまうという、庇を貸して母屋を取られるような結果となったのは、天照皇大神を祀る皇大神宮が、伊勢神宮の御厨である大庭御厨の鎮守となったからであろう。 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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