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プレートテクトニクスグローバル(全地球的)に見ると、鵠沼のある日本列島本州中央部は、東日本を形成する北アメリカプレートに、南からフィリピン海プレートが北上して衝突し、丹沢山地、足柄山地、伊豆半島を次々に形成してきた。そこへ東から太平洋プレートが拡大してきて日本海溝で沈み込み、西にはフォッサマグナの割れ目を挟んで西日本を形成するユーラシアプレートと対峙する。地球上に14あるといわれるプレートのうち、4つまでもがひしめき合っているのだ。こんなところは、そう滅多にあるものではない。 当然、地殻変動が著しく、地形、地質の形成ばかりでなく、植物相「フォッサマグナ要素」など、あらゆる自然環境形成の面でその影響が見られる。 縄文海進今から1万年前ころ〈ヴュルム(ウルム)氷期〉とヨーロッパで呼ばれるに氷期(氷河時代)は終わり、間氷期にはいった。その前後から世界の多くの地域で新石器時代が始まる。日本の場合は縄文時代と呼ばれる。間氷期にはいった縄文時代には、気温が上がり海面も上昇した。海面が最も上昇したのは、今から6000〜5500年ほど前で、藤沢付近では現在の海面よりも10m程度高かったと思われる。そのため、海の面積が拡がり、境川や引地川の谷は細長い入江となった。これを〈縄文海進〉という。この細長い入り江を取り巻く台地の表面には、入り江に下りて魚介類を捕ったり、台地に群れていたイノシシやシカを狩ったりして暮らしていたであろう縄文人の集落跡がいくつも見つかっている。しかし、湘南砂丘地帯は浅い海の底だった。 境川や引地川の流路に沿う平野の断面図をつくってみると、相模野台地からの出口から上流に1km以上にわたる全く水平な部分が認められる。現状は、引地川の場合は明治小学校以北の大庭(おおば)の水田地帯と遊水地となっているところで、旧藤沢北高校付近までであり、境川の場合は旧藤沢宿以北の、最近俣野(またの)遊水地が造成されたあたりまでである。双方共に遊水地がつくられているということは、ここが水害常襲地帯であることを物語る。 ここの標高は、ぴったり海抜10mの水平面なのだ。このことから、比較的最近まで静水面、すなわち入江か湖沼だったことが想定できる。この場所が静水面だった理由としては、両河川の谷の出口が西から東に流れる沿岸流が運んでくる砂が砂嘴(さし)という細長い砂の半島を形成し、入江の口を塞いで湖沼(潟湖(せきこ)=ラグーン)になったこと。下流側の隆起量の方が大きかったために水が溜まりやすかったことが考えられる。この時の砂嘴は後にかなりの高まりをもつ砂丘に発達した。境川の場合は旧藤沢宿の南、藤沢小学校が建つ砂丘、引地川の場合は明治小学校が建つ砂丘だ。 その中間、すなわち伊勢山の南斜面あたりは、縄文時代の海蝕崖である。 縄文海進のピークが過ぎて海面が下がり始めると、入り江あるいは潟湖の段階は過ぎたが、歴史時代に入ってもこのあたりは湖沼であり続けたと考えられる。 縄文後期から海岸平野湘南砂丘地帯が北部から形成され始めるが、今のところ鵠沼地区からは縄文時代の遺跡・遺物は発見されていない。縄文晩期から弥生初期にかけては神奈川県内では遺跡が極端に少なくなる時代なのだ。その理由としては、富士火山の活動が活発だったことが指摘されている。 富士火山の形成見事な円錐火山(シュナイダー分類の「コニーデ」)である富士山の下には、さらに古い火山体が隠れている。先ず、30万年前頃に形成された愛鷹山と小御岳があり、さらに10万年前頃に古富士火山がその中間に形成されたとされる。 今から1万1千年前〜8000年前、すなわち新石器時代=縄文時代が始まる頃に硅酸分の少ない流動性に富む玄武岩質マグマを同一の火口から頻繁に流出した。この噴火で新富士火山の骨格がほぼ形成された。 大規模な溶岩流としては、約10500年前の南東方向三島市楽寿園に達する三島溶岩流、約8500年前の北東方向大月市の猿橋溶岩流、さらに南西方向へは富士川、白糸の滝に達する溶岩流などがある。 その後、数千年にわたり新富士火山の活動は静穏期を迎える。この時代に相模野洪積台地の表面に、縄文人の生活が行われるようになり、縄文海進が進んで境川、引地川の谷にまで海水が入り込んだのだ。 縄文後期の4500〜3000年前、新富士火山の活動が一時期活発化する。山頂火口から溶岩と火砕流の噴出があり、海抜高度を増す方向に成長した。 縄文晩期の2900年前と2500年前、富士山が大崩壊し、多量の土石流が御殿場から酒匂川の方向と黄瀬川の方向へ流れた。 弥生時代に入って2200年前、山頂火口からの最後の大規模な噴火があり、大量の火山噴出物が広く堆積した。 |
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E-Mail: | 鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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