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第0020話 狭まる砂浜

 これまで、特定の時間にとらわれない鵠沼地区の全体像を各方面から見てきた。次の第0021話からは、編年記順に鵠沼地区の歩みをとらえていこう。今回はその橋渡し的な話題である。

狭まる砂浜

 相模湾奥の湘南海岸では、砂浜が狭まってゆくことが話題になって久しい。
 ことに茅ヶ崎市の海岸はこの傾向が著しく、様々な対策が試みられてきた。
 その原因としては
1.砂の供給源である相模川の上流部で太平洋戦争期からダム建設が相次ぎ、また、高度経済成長期に中流部で砂利の採集が盛んになって砂の供給が大幅に減少したこと。
2.CO2の増加による地球温暖化に伴う海面の上昇。
が良く採り上げられる。これらは、人間の利己的な行為の結果として、社会への警告の意味から論議されることが多い。しかし、もう一つ人為的には如何ともしがたい純粋の自然現象も忘れてはならない。
3.フィリピン海プレートの相模トラフにおける沈み込みによる地盤の沈降、相対的な海面の上昇である。
 この沈み込みが限度に達すると跳ね返りが起こる。相模トラフを震源と推定される巨大地震は、
  • 878(元慶 2)年 9月29日 関東大地震
  • 1257(正嘉元)年 8月23日 鎌倉大地震、推定M=7.0
  • 1498(明応 7)年 8月25日 「明応地震」、推定M=8.6
  • 1703(元禄16)年11月22日 「元禄地震」、推定M=8.2 震度7.3 
  • 1923(大正12)年 9月 1日 「大正関東地震」、M=7.9
が記録されている。
 大正関東地震の際は、鵠沼海岸で約90cmの地盤隆起があり、大幅な海退により砂浜の面積が拡がった。このため、震災復興が一段落した1928(昭和3)年、神奈川県の御大典(昭和天皇の即位式)記念行事として、湘南海岸一帯の「魚附砂防林」の植樹が取り組まれた。

相模湾の海底地形と沿岸流

 相模湾の沿岸流について見ると、西半分では反時計回りだが、東半分では時計回りだ。
 この理由には2つの要因が考えられる。
 その1は湾口部の中央に伊豆大島があることだ。日本海流(黒潮)の一部は三浦半島まで行く前に、大島にぶつかって相模湾内の中央部に入ってくる。
 その2は相模湾の海底地形と水深が西半分と東半分とでは著しく異なる点だ。東半分にあたる湘南海岸から三浦半島西岸にかけては、狭いながらも陸棚(浅い平坦な海底)が認められ、その先は海脚と呼ばれる尾根状の地形と海底谷が交互にひだを形成して相模トラフに落ち込んでいる。ところが西半分、特に小田原市国府津(こうづ)以西は、いわゆるドン深で、いきなり1300mの相模舟状海盆まで沈み込んでいる。北米プレートとフィリピン海プレートとの境界をなす相模トラフだ。相模湾の東側に海水浴場が並んでいるのに対し、西半分ではマリンスポーツが盛んでないのは、単に東京からの距離だけが理由ではない。相模湾東部の沿岸漁法が地引き網や投げ釣りであるのに対し、西部では定置網と磯釣りが見られるのもこのためだ。
 大島にぶつかった日本海流の一部は、陸棚の壁に沿って北上し、相模川が形成した相模海底谷めがけて進んでくる。そして、相模川河口付近で東西に分かれる。
 そういうわけで、茅ヶ崎市から藤沢市にかけての相模湾奥における沿岸流は西から東に向かい、片瀬山丘陵や江の島にぶつかって沖に逃げる。このために引地川・境川は河口部が東に曲流する。沿岸流に運ばれた海砂が河口部に砂嘴(さし)(細長い砂の半島)を形成するためだ。江戸時代初期の絵図には、引地川が境川に流入する姿を描いたものも残っている。また、陸地と江の島の間に陸繋(りくけい)砂州(さす)(トンボロ)を発達させ、江の島を陸繋島(りくけいとう)にした。
 

引地川河口の移動

 引地川は、元禄時代の古図や18世紀の鉄炮場の図によれば片瀬川の支流だった。また、片瀬川の河口は現在の鵠沼海岸一丁目と片瀬海岸三丁目の境界すなわち鵠沼地区と片瀬地区の境界、1947年4月1日までの高座郡、鎌倉郡の郡境の位置にあった。
 この当時の引地川の河道は、ほぼ現在の肥上げ道の位置にあったと考えられる。海岸線との間にはかなり高い第1砂丘列があった。
 明治時代の地形図では片瀬川の河口は現在の河口の位置に移り、引地川の河口も高座鎌倉郡境よりは西に移動したが、現在の河口よりは相当東にあった。
 第1砂丘列は、大正関東地震の津波から鵠沼海岸の別荘地を護る役割を果たしたが、この津波によって侵蝕され、消滅した。1920(大正9)年完成した内藤邸からは、地震の後、それまで見えなかった海面や江の島が望めるようになったという。津波は引地川伝いに遡り、地引き網の漁船を現在の大平橋付近まで運び、引き波で5軒の民家が流失した。
 1931(昭和 6)年の1月に始まり、1934年2月に完成した引地川の第3期改修工事により、河口の位置は現在の位置に固定されたが、木杭の簡単な工事だったため、しばしば破壊され、河口の位置は東に移動した。その度に河口は現在の位置に戻されたが、旧河道は河跡湖として残った。現在のようなコンクリート製の堅牢なものになったのは、1954(昭和29)年のことであった。この河口の東方移動は、上記の沿岸流によるものである。
 この年、県立湘南海岸公園建設が始まった。完成は1960(昭和35)年のことである。このときの公園建設は、海抜3m台の基盤の上に、江の島マリンランドをはじめ、各交通企業などの観光施設や駐車場を、特許事業方式(民間施設活用)で配置するというものであった。

湘南海岸公園の再整備

 1978(昭和53)年の大規模地震対策特別措置法に基づく東海地震発生の予測から、相模湾岸の津波の波高が7m以上と計算された。
 翌1979年、台風20号による高潮は3.7mを記録し、東急レストハウス内に侵入、国道134号を越えた。
 これらの事情から、1985年、神奈川県は「湘南なぎさプラン」を策定し、その中に「湘南海岸公園の再整備」・「国道134号の拡幅整備」「国道134号地下駐車場の整備」「駐車場の整備(西部・中部)」「階段護岸の整備」などを位置づけた。この 「湘南海岸公園の再整備」とは、1989年〜1994年にかけて、湘南海岸公園の諸施設を撤去(1991:小田急シーサイドパレス、1994:えのしまへるすせんたーなど)し、3m台だった基盤の高さを7mにかさ上げして、防潮堤の役割を持たせ、大型駐車場の設置、国道134号の改良工事などを行うものであった。 
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

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