鵠沼を語る会の元リーダー、故伊藤節堂氏は、会誌『鵠沼』の初期に健筆を振るわれた極めて多趣味な方である。
氏は1979年に主に引地川下流部に見られる野草(顕花植物)を調査され、その結果を3回に分けて『鵠沼』の8号と9号に報告された。
おそらくアマチュア植物愛好家として、一定のレベルに達しておられたと思うが、調査期間が限られていたためか、必ずしも科学的に正確な結果が得られていたとは言い難い。しかし、今から30年ほど前の一般的に見られた引地川下流部のフローラ(植物相)を想像するには充分だと思われるので、あえて紹介したい。
これによって、この30年間に鵠沼の自然界がどのように変化したかを調べてみるのも興味深い。
原文では、種名を羅列してあるだけなので、3地域を比較できるように一覧表に整理した。
外来種の斜体文字は私が付け加えたものである。鵠沼の野草のうち、3分の1程度が外来種であることが判った。現在はさらに外来種が増え、在来種が減少していると思われる。
一覧表の下に種名紹介以外の伊藤節堂氏の文章を引用しておく。
鵠沼(引地川下流部)の野草 |
1979年 伊藤節堂調査 |
種 名 |
科 名 |
堀川デルタ |
海岸砂丘 |
引地川左岸 |
オオアレチノギク |
キク科 |
○ |
|
○ |
オナモミ |
キク科 |
○ |
○ |
○ |
キクイモ |
キク科 |
|
|
○ |
クワモドキ(オオプタクサ) |
キク科 |
○ |
|
○ |
セイヨウタンポポ |
キク科 |
○ |
○ |
○ |
ノゲシ |
キク科 |
○ |
○ |
○ |
ノコンギク |
キク科 |
|
○ |
○ |
ノボロギク |
キク科 |
|
|
○ |
ハルジョオン |
キク科 |
○ |
|
○ |
ヒメムカシヨモギ |
キク科 |
○ |
|
○ |
ブタクサ |
キク科 |
○ |
|
○ |
ヨモギ |
キク科 |
○ |
○ |
○ |
スイカズラ |
スイカズラ科 |
|
|
○ |
フタバムグラ |
アカネ科 |
○ |
○ |
○ |
ヘクソカズラ |
アカネ科 |
○ |
○ |
○ |
オオバコ |
オオバコ科 |
|
|
○ |
ヘラオオバコ |
オオバコ科 |
○ |
|
|
オオイヌノフグリ |
ゴマノハグサ科 |
○ |
|
○ |
ヨウシュチョウセンアサガオ |
ナス科 |
○ |
|
|
オドリコソウ |
シソ科 |
|
|
○ |
シソ |
シソ科 |
|
|
○ |
ヒメオドリコソウ |
シソ科 |
|
|
○ |
ネナシカズラ |
ヒルガオ科 |
|
○ |
|
ハマヒルガオ |
ヒルガオ科 |
○ |
○ |
○ |
アレチマツヨイグサ |
アカバナ科 |
|
|
○ |
オオマツヨイケサ |
アカバナ科 |
|
○ |
|
コマツヨイグサ |
アカバナ科 |
○ |
○ |
○ |
マツヨイグサ |
アカバナ科 |
○ |
|
○ |
メマツヨイグサ |
アカバナ科 |
○ |
○ |
○ |
ノブドウ |
ブドウ科 |
|
|
○ |
カタバミ |
カタバミ科 |
○ |
○ |
○ |
ムラサキカタバミ |
カタバミ科 |
○ |
|
|
ヤハズ(カラスノ)エンドウ |
マメ科 |
○ |
○ |
○ |
クズ |
マメ科 |
|
|
○ |
スズメノエンドウ |
マメ科 |
|
|
○ |
ツルフジバカマ |
マメ科 |
|
|
○ |
ハマエンドウ |
マメ科 |
○ |
○ |
|
メドハギ |
マメ科 |
○ |
○ |
|
テリハノイバラ |
バラ科 |
○ |
|
○ |
ナワシロイチゴ |
バラ科 |
|
|
○ |
ナズナ |
アブラナ科 |
|
|
○ |
キツネノボタン |
キンポウゲ科 |
○ |
|
|
マンテマ |
ナデシコ科 |
○ |
○ |
○ |
オシロイバナ |
オシロイバナ科 |
|
|
○ |
イノコズチ |
ヒユ科 |
○ |
|
○ |
オカヒジキ |
アカザ科 |
|
○ |
|
シロザ |
アカザ科 |
|
○ |
○ |
イタドリ |
タデ科 |
|
|
○ |
ギシギシ |
タデ科 |
○ |
○ |
○ |
スイバ |
タデ科 |
○ |
|
○ |
ママコノシリヌグイ |
タデ科 |
○ |
|
|
ドクダミ |
ドクダミ科 |
○ |
|
|
タマスダレ |
ヒガンバナ科 |
|
|
○ |
ツルボ |
ユリ科 |
|
|
○ |
ヤプカンゾウ |
ユリ科 |
|
|
○ |
ユッカ(和名イトラン) |
ユリ科 |
|
○ |
|
ツユクサ |
ツユクサ科 |
|
|
○ |
アゼガヤツリ |
カヤツリグサ科 |
○ |
○ |
○ |
コウボウシバ |
カヤツリグサ科 |
○ |
○ |
|
コウボウムギ |
カヤツリグサ科 |
○ |
○ |
|
エノコログサ |
イネ科 |
○ |
|
○ |
オヒシバ |
イネ科 |
○ |
○ |
○ |
カモノハシ |
イネ科 |
○ |
|
|
キツネガヤ |
イネ科 |
|
|
○ |
キンエノコロ |
イネ科 |
|
|
○ |
ササ |
イネ科 |
|
|
○ |
ススキ |
イネ科 |
○ |
○ |
○ |
チガヤ |
イネ科 |
|
|
○ |
チカラシバ |
イネ科 |
|
|
○ |
ネズミノオ |
イネ科 |
|
|
○ |
メヒシバ |
イネ科 |
○ |
○ |
○ |
ヨシ |
イネ科 |
○ |
|
○ |
スギナ |
トクサ科 |
|
|
○ |
太字は木本、斜体文字は外来種 種数→ |
40 |
27 |
58 |
鵠沼の野草(その1)
────────堀川デルタ地帯────────
伊藤節堂
昭和39年オリンピックの時上流を埋め立てられた堀川は、いま鵠沼海岸二丁目の雅叙園西側から国道134号線にかけられた渚橋の下を流れ、さらにサイクリング道路と公園(湘南海岸公園いこいの広場)にかかる片帆橋の下を流れて引地川にそそぐのである。
堀川といえば聞こえはよいが見た感じでは単なる下水溝に過ぎない。ゆくゆくは暗渠が設けられて、一番に埋め立てられるのではないか。
さてここでデルタ地帯と呼んだのは、堀川の下流サイクリング道路と公園と引地川との間が三角形をなしデルタに相当するからである。おそらく堀川の出水や引地川の氾濫では、いつも水に浸った場所に違いない。そう思って見ていたところこれが意外に早く証明された。
昭和54年10月19日の台風20号では集中豪雨で増水したところへ、台風の高波と満潮とが重なって引地川は満水しサイクリング道路の上にも波がかぶった。このため堀川デルタは一面に厚い砂とごみにおおわれ、丈の高い植物の穂先がかろうじて砂の上に見えるだけである。この地帯の植物が元にもどるのはむずかしいとおもう。
ところで堀川デルタの植物はかって砂丘であったときの海浜植物と、上流から運ばれた平地植物とが混在しており、種類が実に豊富なのである。
中でも鵠沼砂丘ではすでに絶滅したハマエンドウがここでは群生していたり、ヘラオオバコやカモノハシなど他に見られないものがここにはある。
堀川デルタの植物が再び芽吹くことを願うものであるが、とりあえず本年5月以降、折りにふれて調査した植物をここに記録し後日の資料としたい。
鵠沼の野草(その2)
――――海岸砂丘(引地川―辻堂境)――――
「私は早朝の湘南砂丘を散歩する。朝日がのぼると逆光に浮き出す風紋が実に美しい。
その美しい風紋と対照的に、一方には雑草の群生がある。雑草というのは耕作物に対する害草を意味するが、ここではすべての雑草が防砂の役割を果たしているのだから害草とはいわれない。
さて一口に雑草と言われるこれらの砂丘植物にもそれぞれに名前がある。全国どこにも見られるのがハマヒルガオで葉は腎臓形、初夏アサガオに似た淡紅色の花を開く。
少しはなれてコウボウムギの群生がある。別の名をフデグサといい、地下茎に筆状の部分がある。春にオオムギに似た15pほどの花穂が出るので、筆・弘法・麦と連想してこの名がついた。
筆草の根をばたばねて砂の上に
歌書きて見つ磯のタぐれ
落合直文
砂防のすのこの根方にハマニンニクの群生がある。葉形がニン'ニクに似ているのでこの名がついた。別名をクサドウ、またはテンキグサともいう。テンキはアイヌ語で篭を言うそうだ。郷里新潟県北部の海岸ではタンコチと言い、岩ノリを干すときのすのこを編む。
延喜式に諸国進年料雑薬の項があって、相模の国から貢進される薬草の中にハマボウフウのことが載っているという。探しているがいまだに見つからない。若葉は香気があり食料に、根はせんじて感冒薬に用いるとある。
鵠沼海岸から茅ヶ崎の海岸まで砂丘の上を自転車歩行者専用道路が通っていて、そこが私の散歩道なのだが、驚くことはあの頑丈なアスファルトを押し上げ、押し破ってコウボウシバやカヤツリグサ、それに葉の軟らかいハマヒルガオまでが新しい芽をのばしていることだ。スプーンを曲げるオカルトなどは及びもっかない不思議さがある。
ある場所ではハマヒルガオの群生の上に寄生植物が黄色く覆いかぶさり、まるでラーメンをぶちまけたようになっている。これが九日付け本紙に報道されたアメリカネナシカズラで、これこそ砂丘植物にとって憎むべき害草なのだ。」以上は昭和53年9月22日付神奈川新聞「私の意見」欄に筆者が投稿したものの一部である.
さてこの美しい砂丘も、去る10月19日の台風20号で見るもむざんに荒らされてしまった。高波はサイクリング道路をこえて打ち上げ海側の砂丘は削り取られ、新しいすのこは殆ど打ち倒されてしまった。
只今はサイクリング道路に沿って辻堂境まで新しい防砂網を張る工事がなされているが、これが完成すると、砂丘植物はちょうど囲いの中に保護される形となる。しかし私たちが観察、調査することはできにくくなるかも知れない。
鵠沼の野草(その3)
―――――引地川左岸(国鉄鉄橋から鵠沼橋まで)―――――
伊藤節堂
昭和54年4月5日付神奈川新聞に「暴れ川退治に国が総合対策」の記事がのった。
その内容は、建設省は54年度から対策の急がれている都市部の河川を、全国で9河川指定し、8年間で改修するというのである。
この9河川の中に境川と引地川が選ばれ、引地川には110億3千万円がつぎ込まれるという。
引地川はご承知のように、大和市上草柳の台地を源流とする二級河川であるが、48年11月豪雨や41年4号台風など、その都度浸水さわぎを起こした暴れ川である。
さて河川改修というのは、河川の幅を拡げたり護岸を整備したりするのであるが、護岸をコンクリートブロックで築き上げると、もうそこには草も木も生えることはない。年々歳々川の流れは変わらないが歳々年々野の草は一つづつ姿を消して行く。子どものころに摘んだすみれもたんぽぽも遠いむかしの想い出として懐かしむだけである。
いまのうちに記録に残さなければと考えた私は、昨年5月20日から10月9日まで6ヵ月に亘って観察した。なぜならば春・夏・秋それぞれに草は芽を出し花を咲かせているからである。
昨年は富士見橋上流の改修が完成したが、富士見橋上流の鉄橋までの左岸には十八種の雑草があったことをここに記録しておきたい。
あとがき
武者小路実篤の「春」という詩の第二節の中ほどに
「自分は庭に出て、
泥をほったり、
池の健をとったり、
浜へ出てぽ一ふをとったり、
つみ草に出かけたりすることも好きだ。」
とある。
これは詞書きにもあるように、鵠沼に住んでおられたときの作であるが、当時竜宮橋を渡った砂丘地帯にハハマボウフウが採り切れないほどあったと思う。
ところで昨年の4月17日朝7時半サイクリング道路を歩いていてハマボウフウを二株みつけた。場所は地引網の船が据えられるところから二桝目の砂防簀垣の中である。このあたりは冬にプルトーザーで砂丘を削ったところであるからひょっとしたら千年前の種が太陽のぬくまりで発芽したのではないかと奇異な感じさえした。さてこれを保存するにはどうすればよいかなどと、振り返りながらその場を去った。それから11日たった4月28日再びここを訪れた私はあっと驚いた。あの若々しいハマボウフウが二本とも掘りとられてあとかたもないのである。
千年前の延喜式にも載った相模のハマボウフウを私たちの世代で一本も残さず絶やしてしまうことは何としても情けないことである。
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