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一木與十郎町長の名から前項で紹介した中岡耕地整理が行われた結果、「中岡耕地整理紀功碑」に記されている「一丈五尺の本道南北に通じ、数条の支路東西に分つ」とある「一丈五尺の本道」がメインルートになった。これが「一木通り」である。鵠沼松が岡の一〜三丁目は「鵠沼海岸別荘地」として明治中期から開発が進められたが、そのメインルートは必ずしも正確な直線道路ではなく、正確な間隔で平行してもいない。江ノ電開通後に整備された「海岸通り」はかなり正確な直線道路になってはいるが。 これらに対し、「一木通り」はかなり正確な直線道路である。一丈五尺すなわち4.5mの道幅は、現在の自動車時代にはかなり狭い。もともとは東側に側溝があったのだが、1964(昭和39)年に暗渠化され、その分だけ広くなった 「一木通り」の名は、鵠沼中岡耕地整理組合の組合長であり、藤澤町長だった一木與十郎に因むことはある程度知られている。ただ、「一木邸の前を通るから」と思っておられる方が多い。一木與十郎邸は小田急線熊倉通り踏切の北東にあり、一木通りには面していなかった。 |
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