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第0312話 三越鵠沼倶樂部

鵠沼の保養所のはしり

 ビーチリゾート鵠沼を象徴する施設に、諸企業の従業員組合などが設置する保養所や研修施設がある。その多くは戦後の一時期、雨後の筍のように設置されたが、現在はすっかり姿を消した。この手の施設は企業が事業のために設置したものではないので、開設や廃止の時期、その内容や名称なども社史などの記録に残っていない例が多い。
 ビーチリゾート鵠沼の地理的性格を研究する場合、避けては通れないものだが、極めて調査しづらい。折を見て年代別の明細地図と職業別電話帳などを調べれば、大まかな消長を掴むことができそうだと思うが、まだその機会がない。
 鵠沼におけるこの手の施設の嚆矢は、江ノ電鵠沼駅近くにあった《三越倶楽部》であろう。
 1916(大正5)年8月店員愛護会の経営でこの地(中藤ヶ谷7155-15)に風雅な萱葺きの保養所が設けられたのが始まりで、広大な敷地を有した中藤ヶ谷髙瀨三郎邸の南側に隣接していた。
 1915(大正4)年9月から1918(大正7)年6月まで、和辻哲郎・照夫妻が髙瀨三郎邸の離れに居住していたが、照夫人の『和辻哲郎とともに』によれば、「電話を三越(店員保養所)から取り次いで来た」(p.184)とあり、照が書いている大正5 年当時はすでに三越保養所があったことが分かる。
 保養所の建物は彼の大正12(1923)年の大地震で倒壊した。1928(昭和3)年1月、今度は倶楽部という名で生れたのが現在の西洋館と日本館である。
 三越倶楽部は永年三越呉服店に奉職、日露戦役にも従軍(陸軍中尉)し、勤続功成り名を遂げ、老後を鵠沼字中藤ヶ谷7292に居を構え、藤澤町議会議員を務めていた山道梅太郎翁の斡旋で実現し、初代の支配人をも務められた。倶楽部は広い芝生の庭園の先(境川際、現藤が谷公園)にはテニスコートもあった。
 戦後もしばらくは、かなり最近まで存在したように記憶するが、現在はない。いつ廃止されたのかは未調査である。
 慶應義塾に縁の深い山道梅太郎が斡旋した施設の故か、《藤沢三田会》は定期会合のために三越倶楽部を利用したと、同会のホームページにある。

 この施設についての詳細は未調査だが、ここに1932(昭和7)年11月30日発行の『大三越歴史寫眞帖』の中に数葉の写真とともに紹介記事があるので引用する。

  絶好のパラダイス

      三越鵠沼倶樂部

          夏は海水浴に冬は避寒に

 東海道線藤澤驛で降りて、江の島行電車に乘ると、僅々五分間で、鵠沼停車場に着く、心持ちの好い砂地を踏んで、一丁程小戻りすると線路に沿ふた右側の松の木立に圍れた所に『三越鵠沼倶樂部』がある。和洋の建物はガツシりと翠松の間に建て、鵠沼の濤聲は夢の様に通ふて來るといふ靜けさだ、此は大正五年八月、三越店員愛護會の基金で、萱葺きの風雅な建物を此處に建築されたものだが、あの十二年の震災で、全部倒潰した爲改めて昭和三年一月、鵠沼倶樂部の名稱の下に建築されたもの、洋館の方は百二十三坪の平家建で、日本館の方が階下六十九坪、階上二十六坪といふ、此地方には珍しい大きな建物で、同三年一月一日から開館した、爾來店員の誰彼となく冬は避寒に、夏は海水浴に來ては終日娯樂室で遊び耽つては、夕刻夫々歸て行く、都會の騒音に日夜艱まされて居る若人達の爲にも絶好のパラダイスであるに違ひない。
 尚ほこの鵠沼倶樂部の洋館は、百二十三坪の平屋建てでこれは相當由緒の深いものである、
 この洋館は其以前、品川の現少年寮の處にあつたもので、明治初年、日本郵船會社の顧問技師であつた英國人ゼームス氏が、品川灣頭を一望に眺むこの高臺にさゝやかな洋館を建てゝ住んでゐたのであるが、後に三越では土地と一緒にこの洋館も買ひ取つたが、一寸と始末に困つたので、その儘鵠沼の倶樂部に移し、その通り修築したもので、内部の設備もゼームス氏が住んでゐた當時そのまゝにしてあるので、明治時代の洋館として記念すべき建物の一つであるといふ。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 大三越歴史寫眞帖刊行會:『大三越歴史寫眞帖』(1932)
  • 伊藤 聖:「高瀬彌一と大正教養派」『鵠沼』第89号(2004)
  • 和辻 照:『和辻哲郎とともに』新潮社(1966)
 
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