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第0301話 葉山又三郎

葉山又三郎、破防法容疑で特高に逮捕され、拷問を受ける

 6期にわたり藤沢市長を務め、藤沢市名誉市民となった葉山峻の父親は、戦後初の地方選で大和田武とともに日本共産党から藤沢市議に立候補し、全国的にも初めてといわれるダブル当選を果たした葉山又三郎である。葉山家は代々堀川の大地主で、又三郎の父又兵衛は小作にも人望があった。第0261話で紹介した現在《鵠沼松が岡公園》になっている土地を村川堅固に売ったのも葉山家だったという。
 葉山又三郎夫妻については、高木和男が『踏み拓いた峠道:葉山又三郎とふゆ子の記録』という評伝を著しているが、現在絶版で、私は目にしていない。
 1931(昭和 6)年2月の『湘南新聞』に「葉山又三郎、破防法容疑で特高に逮捕され、拷問を受ける」という記事が掲載されている。葉山 峻が誕生したのは1933(昭和 8)年5月1日、メーデーの日だったが、「峻」という名前は父又三郎に対してあまりに峻烈な拷問が加えられたことから名づけられたと伝えられる。又三郎は峻の誕生を大いに喜び、十八畳の大凧を作って祝ったという。5月は鵠沼の凧揚げのシーズンであった。
 又三郎の逮捕、拷問の経緯については、上記『踏み拓いた峠道:葉山又三郎とふゆ子の記録』に述べられていると思うが、図書館等にも今のところ見当たらない。人物像については、隣家の若尾肇氏が『鵠沼』第75号(1997)に「葉山家の人々」と題して寄稿されているので、そこから抜萃しよう。
  • マタベさんが亡くなり、長男マタちゃんが後を継いだのは、彼が未だ十八才の時であった。彼は多血質で野太い声の持ち主だった。
    彼は湘南中学に進学したが勉強家であったようだ。母の言によれば、風呂炊きの最中にも、大きな声で英語のリーダーを暗唱する声が聞こえたそうだが、彼は赤木校長から『稀に見る勉強家』当時の勉強家とは、今のような点取り虫ではなく、学問探求の意欲の強い者が多かった)の折り紙を付けられて、静岡高校に進学した。
    彼はまた正義感が強く、静岡高校でマルクス・レーニン主義に傾倒したようだが、それは一つは自分の父親が、大地主として今日まで歩んだ経緯を心の中で批判し、二つには当時の政府が『百姓は、生かさず殺さず』式の政治を取るのに強い義憤を持ったためと考えられる。
    それ故彼の交際範囲は、士地の農家の人々が多く、彼等と車座になって酒を飲んだり、ワイ談を飛ばしたりして、インテリぶるところがなかった。バクチ等で警察に逮捕された村の若者等を進んで貰い下げるなど、面倒見の良い庶民性を備えていた。
    そこで、お上意識が強くアカと言うと、悪魔のように思われる土地柄の中で「マタちゃんはアカだ」と言われながらも、彼を敬遠する地元の人は少なかった。
    当時は畑越という巡査が、この地区の担当だったが、夜など私の家の植え込みに張り込んで、オルグの集会を監視し、時には「待てーっ」と叫ぴながら追い掛ける声を聞いたこともある。彼は何度か捕まって投獄され、言語に絶する拷問も受けたそうだ。陰茎を蝋燭の火で焼かれたとか、爪の間に竹ぺらを入れられたり、くるぶしを鉄の塊でしつこく叩かれたことを聞かされた。村の人々は「マタちゃんも早く転向すりゃあいいに」などと話し合っていたが、彼は最後まで説を曲げなかった。
  • 彼は獄中で、東京女子大出身のフユさんと知り合い結婚したと閉いたが確かではない。フユさんは彼の人柄にすっかり惚れ込んで、「結婚してくれなければ江 の島の海に飛ぴ込んで死ぬ」とまで言ったそうである。
  • マタちゃんは、『アカ』と言われていたにも拘らず、二十八才で藤沢市議に立候補し、最高点で当選した。彼の政治に掛けた情熱はすさまじく、当選後、フユ さんに、「俺がこんな若さで当選できたのは、どうせ短命に決まっている。だから思い切り大仕事をしてやるんだ」と言ったそうである。
    彼はその言葉に忠実に、議会ではかなり強い発言もしていたようだ。例えば、市長が暖昧な答弁をすると、さっと立ち上がり、「市長っ、今直ちに止めたまえっ。」と怒鳴ったりしたそうだ。
  • 戦後、彼が藤沢市長に立候補したとき、知人や地元の人々は、「マタちゃんは、無所属で立ちやあJ 当選確実なのによう、」と噂し合っていたが、彼は彼なりの信念を通して、無所属にはならず、押し通した。息子の峻ちゃんに夢を託したか、小学生の彼を連れ歩き、辻説法を繰り返していた。
    彼の施政方針演説は、戦後の苦しい庶民生活に向けられ、利益誘導型は取らず、「公益質屋の開設、下水道の整備」等の地味な政策を強く打ち出していたため、利益誘導主体の保守系候補の前に、敗戦の憂き目を見ることになった。
    彼の辻説法が終わると、(現市長[当時])の峻ちゃんが、小学生独特の黄色いソプラノで、「藤沢市長には、庶民のための政治家、葉山又三郎、情熱の政治家、葉山又三郎を、是非とも宜しくお願い致しま一す。」と声を張り上げていたのが思い出される。
  • 彼は共産党内では国際派に属し、主流派と対立していたようだが、血の気の多かった彼は、党内の議論でも幹部にかなり強い発言をしたようで、ついに除名の 憂き目を見た。共産党長老の話によれば、彼は党内の討論ではかなり過激に激論を交わし、激昂して、「そんな共産党なら、止めてやるっ。」と言い、売り言葉に買い言葉で除名になったそうである。 同じように除名されても、元副委員長の袴田などと全く違っていた点は、部外者には除名の弁解は一切せず、共産党の悪口も一言も言わなかったことである。この点は彼らしい潔さと思った。
  • 彼は予言通り市政壇上に倒れた。市長の不正事件を追及中、市長の暖昧な答弁に、満面朱を注いで立ち上がり、更に追及しようとして、崩折れるように倒れ、そのまま不帰の人になってしまった。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 若尾肇:「葉山家の人々」『鵠沼』第75号(1997)
 
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