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第0261話 鵠沼文化人百選 その024 村川堅固・堅太郎


 小田急線の本鵠沼から鵠沼海岸に向かう中間点、左に大きくカーブするあたりの左車窓から、クロマツの生えた砂丘が望まれる。ここは現在「鵠沼松が岡公園」になっているが、1926(大正15)年から帝大教授の村川堅固が別荘を構え、子息で父の後を継ぐように東大で西洋史を教えた村川堅太郎が戦中、、戦後を暮らした場所である。
 堅太郎の没後、令嬢の村川夏子氏ら遺族が、鵠沼の雰囲気を留めるこの松林を保存したいという堅太郎の遺志を条件に物納し、公園として保存することになった。

プロフィール

  村川堅固(むらかわ けんご 1875-1946)は西洋史学者 東京帝国大名誉教授 熊本県出身(細川藩士)
 1898年、東京帝大文科大学史学科を卒業後、1903-06年にヨーロッパ留学。帰国後東京帝大助教授となった。
 1912年、教授に昇格。大正~昭和初期、わが国西洋古代史研究の第一人者として活躍した。著書・訳書も多く、多岐にわたっている。また、教科書も多く制作した。
 自宅は当初は淺草に住んだが、1910年に文京区目白台に移る。この邸宅は震災・戦禍を免れて現存し、主屋は中廊下をもつ2階建て和風住宅の好例。洋館、蔵は洋風の意匠を持つ。文京区登録文化財。
 また、我孫子宿本陣取り壊しの話を聞き、一部を買い取り、手賀沼と富士山を望む台地の縁に運ばせて別荘とした。さらに昭和初期、別荘地に銅葺きの一見朝鮮風の御堂のような建物を建てた。

 村川堅太郎(むらかわ けんたろう 1907-1991)は古代ギリシャ史学者 東京大学教授
 村川堅固の長男。父親と同様、古典古代史の領域で市民共同体としてのポリス社会の諸問題に関する高度に実証的な研究の道をきりひらき、多くのすぐれた研究者を育てた。
 住環境と動植物に愛情を注ぎ、目白台の自宅に隣接する施設の改築でクスノキが伐採されようとしたのを、身体を張って防いだ逸話がある。

鵠沼とのゆかり

 堅固は我孫子の2棟の別荘建設の中間にあたる1926年から、現在の鵠沼松が岡5-8一帯のクロマツの生えた砂丘、約1800坪を3回に分けて購入し、同郷の親友、宇野哲人(漢学・中国哲学者。東京帝大教授。実践女子大学長)と隣接して別荘を構えた。
 堅太郎は結婚後の1937(昭和12)年から1952(昭和27)年まで鵠沼中岡6282(鵠沼松が岡5-8-30)の別荘に定住。戦中戦後、広大な敷地の一部を畑にし、モモや麦などを育てるのを日課とした。家族は1955年まで鵠沼に残ったが、転出後も別荘は我孫子・鵠沼ともに維持された。1976(昭和51)年から1988年までは息女=夏子氏が住まわれ、敷地の一部は「みどりの広場」に提供された。堅太郎は自分の死後も自治体によって別荘の現状保存が図られることを望み、1991(平成3)年12月23日に堅太郎が没した後、遺族は物納申請するかたわらこの遺志を藤沢市と大蔵省に伝えた。物納時に建物は撤去されたが、敷地に「鵠沼松が岡公園」が生まれた。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
 
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