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第0300話 引地川改修工事

時局匡救農村振興土木事業

 1931(昭和 6)年1月、神奈川県は引地川の第3期改修工事に着手したと『藤沢市史年表』にある。これは完成時に建てられた《紀功碑》にある「町理事者は極力県当局に対し、引地川の改修を懇請し、幸に県当局の納るる所となり、」というタイミングを示すようで、実際の着工は翌年だったようだ。 第3期改修工事というからには、その前に第1期、第2期があったはずだが、今のところ調査不足で不明である。恐らく上流、中流部の改修工事が先行したものだろう。
 この第3期は「時局匡救(きょうきゅう)農村振興土木事業」として行われた。時局匡救事業というのは、1932(昭和7)年から1934(昭和9)年にかけて、日本で実施された世界恐慌に伴う景気対策を目的とする公共事業である。国家財政から総額5億5,629万円、地方財政から総額3億858万円、合計8億6,487万円が投入され、各地で土木工事などが行われた。引地川の第3期改修工事において、神奈川県は1932(昭和7)年度予算に32,000円、1933(昭和8)年度予算に36,000円、総額68,000円を配当している。工事は1,934(昭和9)年2月に完工というから、わずか2年ほどという驚異的なスピードで行われた。第0012話で紹介したように、鵠沼地区の西縁を区切る引地川は、砂丘地帯を流れるため、大水の度に流路がつけ変わるほど曲流が著しかった。近代的な測量技術による地形図が制作されるようになってからも、地形図が発行される度に流路の違う引地川の姿が見られるという状態が昭和に入るまで続いていたのである。
 引地川の第3期改修工事は、この曲流を直線的な流路に改修し、コンクリート護岸を施すこと、農業用水確保のために《鵠沼堰》を建設し、八部地区を中心に《堀川田》と呼ばれる水田地帯を整備することが大きな目標だった。曲流の改修によって、《地蔵袋》の地域が引地川より西側になった。これにより鵠沼地区と辻堂地区の境界線も引き直されたと思われるが、それがどの時点で行われたかは調べがついていない。
 この工事に伴い、農地の交換分合が行われたが、難航を極め、最終的に決着がついたのは実に55年を経た1986(昭和61)年11月のことであった。これらの件については別項を立てる。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 藤沢市:『藤沢市史年表』(1978)
 
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