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広田弘毅別邸第0293話で紹介した《碧瀾荘》の東方、現鵠沼松が岡1-18-9にソ連大使だった広田弘毅家が別荘を構えたのは、小田急が開通して間もない1930(昭和5)年2月のことだった。この別邸での広田弘毅家の生活については、高木和男氏の『鵠沼海岸百年の歴史』に要領よくまとめられているので、引用しよう。 広田弘毅の旧住居が鵠沼の松が岡一丁目十八番地にある。二年間の駐ソ大使から帰任してここに家を建てて住んでいた。その頃は、この辺りは他に住宅もほとんどなく、松林の中に埋もれていた。ここで昭和八年九月(一九三三)外務大臣になるまで静かに暮らしていた。 ソ連からの帰国が昭和七年であるから一年間はここに暮らしたわけである。外相となって原宿に家を待ったが、静子夫人は子供達とともに鵠沼におり、週末には鵠沼へ帰っていたという。 当時の内閣は斉藤実内閣で、組閣当時、外相は内田康哉であったが老齢のため一年で辞し、その後へ広田弘毅が入ったわけであるが、斉藤内閣が帝人事件で辞めて、岡田啓介内閣になっても広田外相ほ留任し、昭和十一年二・二六事件で岡田内閣が総辞職した後、広田内閣が発足したというわけで、鵠沼へ帰る機会は少なくなっていたろうと思う。しかし藤沢暑はこのための警備に気をつかったと思われるが、留守中の用心のためを兼ねたかも知れぬが、邸内に署の高等課の久保田刑事を住み込ませていた。 この久保田は、藤沢署の高等課の刑事として、鵠沼在住の左翼派の文化人には或る意味で親しかった人物である。高等課刑事としては悪ではなかったという。 広田弘毅については、城山三郎「落日燃ゆ」に詳しい。 彼は極東裁判で死刑となったが、なぜ死刑になったのかわからない点がある。もっと軍に協力した責任者はいたはずであると思う。思うに彼はずるくなかったのであろう。 エピソード鵠沼には何人かの外交官や政治家が居を構えたが、鵠沼の住人に親しまれた人物として、広田弘毅は群を抜いている。《鵠沼を語る会》の会誌『鵠沼』に出てくるものを拾い上げて以下に列記した。広田は書を得意とし、彼の揮毫が丸政料理店、藤沢橘通郵便局にあるのを目にしたことがある。最近有田家の土蔵から、広田弘毅が書いた「汐止橋」という橋名表示の下書きらしきものが発見された。目下調査中という。ある程度事情が判明したら、項を立てようと思う。
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広田弘毅鵠沼関係年表 |
西暦 | 和暦 | 月 | 日 | 記 事 |
1930 | 昭和 5 | 2 | 外交官=広田弘毅(1878-1948)、現鵠沼松が岡1-18-9に別荘を構える(本人はソ連大使着任) | |
1932 | 昭和 7 | ソ連大使=広田弘毅、5・15事件の後始末のため帰国。鵠沼の別荘に居住 | ||
1933 | 昭和 8 | 9 | 外相に就任。鵠沼を離れ、原宿に転居 | |
1936 | 昭和11 | 3 | 5 | ~1937.2.1、2・26事件の後を受けて首相に就任 |
1936 | 昭和11 | 3 | 広田弘毅の首相就任を受け、石上から広田弘毅別荘までの道路アスファルト舗装 | |
1936 | 昭和11 | 4 | 広田弘毅の首相就任を受け、別荘に18坪の警備建物を設置 | |
1945 | 昭和20 | 5 | 25 | 東京大空襲のため原宿で罹災→鵠沼の別荘に一時避難 |
1945 | 昭和20 | 8 | 20 | 鵠沼を離れ、練馬の知人安部十二造氏宅に移住 |
1945 | 昭和20 | 12 | 2 | 戦争犯罪人として収監 |
1946 | 昭和21 | 5 | 17 | 広田弘毅の家族、東京裁判傍聴後、鵠沼の別荘に戻り、翌朝静子夫人が自ら命を絶つ |
1948 | 昭和23 | 12 | 23 | 東京裁判の結果、A級戦犯として文官としてはただ一人絞首刑 |
2001 | 平成13 | 7 | 14 | 元首相=広田弘毅の三男正雄の厳水夫人、鵠沼を離れ、東京に移住 |
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