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沼間敏郎別邸《碧瀾荘》現在の住居表示では鵠沼松が岡の最南端に近い鵠沼松が岡1-17-7に、昭和初期に《碧瀾荘》と名付けられた豪邸があった。第0248話で紹介した大曲の角と小田急との間にあった小高い砂丘の頂上部である。これがいつ建てられ、いつなくなったのか明確ではないが、建築主は沼間敏郎という昭和初期に東証の理事長も務めた実業家であった。この土地は後に三井邸となり、現在は日本鋼管健保組合の《江の島保養所》となっている。 1930(昭和5)年4月、歌人の與謝野寛・晶子夫妻がこの《碧瀾荘》に来訪したことは第0014話でもふれたが、その模様は夫妻の六女にあたる鵠沼松が岡在住の森藤子氏が「父と母と鵠沼」と題して『鵠沼』第76号に寄稿された文の中にあるので、その部分を引用しよう。 昭和に入って五年の四月、若いお弟子のSさんが、知人の沼間さんという方の別荘に父母ら数人を招んで下さいました。碧欄荘というそのお宅は、いまの松が岡一丁目、大曲りの角近い高台にあって、眼下に松原がひろがって海につづいてみごとな眺めで父母を喜ばせました。 松原の上なる磯の荘に来ぬ立ちても居ても見ゆる白波 寛 鵠沼の碧欄荘をおとづれて松とある日の春の夕かぜ 鵠沼のゆふべの蛙にはかにも胸のさわぐと告げわたるかな 晶子 その日は日帰りでしたが、まひるの浜にも出て淡くかすむ富士を賞で、月見草の花を哀れとも思い、夕べの蛙の音に耳を傾けるなど終日たのしんで帰京したようです。 「別荘番はいましたけどね、近くにはなにもないから、私と妹で東京からいろ いろお昼のものをそろえて運んだのよ、先生がたがとても喜んで下さったのが嬉 しくて忘れられませんよ」と語っておられたSさんは、ついひと月まえ、九十五 歳の長寿をまっとうされました。碧欄荘は戦後、人手にわたったように聞きまし たが、いま銀行か大会社の保養施設になっているあたりだったのでしょうか。 こうして昔の歌を辿ってゆくと、そのときどきの母の想いがずっと繋がって偲 ばれます。黙って鵠沼の渚を歩いていたときも、母の胸のうちは在りし日の父の 想い出に溢れるものがあったのでしょう。二十の私には、そこまで察することは できませんでした。いまになって、その日の歌に「沙上の夢」と名づけた母のき もちがよく解るような気がするのです。 藤沢郵便局で永年鵠沼地区の郵便配達に携われた渋谷良之氏を招いて行われた講演会で、《碧瀾荘》について次のようなエピソードが語られた。
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