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第0284話 昭和初期の自然


 現在、鵠沼郷土資料展示室では次期展示の企画が話し合われている。《鵠沼の自然》と題するものになりそうだ。《鵠沼を語る会》の会誌『鵠沼』には、関東大震災後から小田急開通以前の鵠沼の自然について、古老が書いたり聞き書きしたりしたものが多く掲載されている。この時代に絞って拾い出してみよう。

古老が語る震災後~小田急開通前頃の鵠沼の自然の思い出

  1. 皇大神宮の向こう側に川というより、田の用水の流れが有って精工の塀に沿って流れていた。うなぎやドジョウなどがいて、雨か降ると水が溢れ、道いっぱいになったものです。今の烏森公園のあのあたりでしょう。昔は神宮の地所は今の倍以上あって、その一部は今の精工の中にいい加減はいっているでしょうよ。あの辺は雑木林は無くて大樹ばかりに覆われて椎だとか、常緑潤葉樹が沢山有った。たぶの木など日陰でも関係なしに大木になりますからね。
  2. 今の順天医院辺りから駅へかけては、小高い砂山があり、松も生えていました。たしかこの砂山だと思うんですが、狐がいて、狐の穴があちこちにあり、私なんかオモチャ屋で火薬買ってきてパチパチと穴の中をいぶして遊んだりしたので、とうとう狐は逃げてしまっていなくなりました。
  3. 藤沢駅の南、花沢町ではウサギが飛び跳ねていた。
  4. 小学校の周りには自然があふれていた。大きな松の木、田んぼ、小川があった。メダカ・フナ・ナマズ・ドジョウなどがたくさんとれた。みんなで夢中になってとっていて、授業に遅れ、大目玉を食ったこともあり、いまでも懐かしく思い出される。
  5. 境川にはカラス貝、シジミ貝、エピ、うなぎなどがいてバケツーぱいはわけなくとれた
  6. 鵠中から高瀬通りを横切り真っ直ぐゆくと蓮田で、昔はここまで川がきていた。この川は螺子のところからきていた。その頃は鎌倉郡であった。子供の頃、小さなエビをよくすくいに行った。水が湧き出ており、黒い貝が足に当たった。中からは真珠が出てきたが子供だったので、そのままポイと捨ててしまった。
  7. 川には木の橋が掛かっておリ、橋を渡ると上リ坂となった砂地の山で、両側は鬱蒼とした松林が遠くまで続いていて、夜道などは幽霊や山姥等が襲って来そうなムードがあリ、兎や野狐も棲息していた。かわうそが棲んでいるという人もいたが、確認はしていない。
  8. あるとき、夜中に養鶏場で突然、鶏たちの大きな鳴き声がするので、主人が見回りに行ったところ、鶏がイタチに襲われていたということもあった。本鵠沼にもイタチがいたのである。
  9. 今の日本精工の寮があるところがバラ山で、やまぶどうや桑の実がなったりしていたので学校の帰りに食べて、よく親にしかられました。
  10. 境川では鮎が釣れ、鰻が捕れました。長妻さんの家のそばには、川が流れ沼があり、釣りもできました。
  11. この近くには、百両山のような松の繁った大きな砂山や、小さな砂山がいくもあって、松露や初茸がたくさん採れました。
  12. 両側は田んぼで、その中央を小川が横切っていた。岸辺にはすみれ、たんぽぽ、つくしんぼう、はこべなどが可憐な花を咲かせ、夏はきリぎリす、くつわ虫、松虫、こおろぎなどが、草むらで華麗なオーケストラを奏でるなかを蛍が乱舞し、水の中には泥鰌、めだか、鮒、なまず、そうめんこ(鰻の子)等の他、水すまし、げんごろう、あめんぼう、やご、たがめ等がいた。
    また夏の夕暮れにはおんじょ(やんま)の大群が夕焼空を覆って南に北に飛び交っていた
  13. 百両山には、よく遊ぴに行き兎がいてね、兎は後足が長いから、登るときは速くて捕まえられない。坂下りる時の方が捕まえやすい斜めに走って下りてくるやつを捕まえたものだ。子どもの兎だね。
  14. 現在の一木通りは、片側にきれいな水の流れる小川があって、西側は畑だったが、この溝にはホタルが飛んでいた。
  15. その頃の海は真に椅麗で片瀬迄は砂丘と松林が続き辻堂に近い方では防風が一ぱい採れたものである。又松林には松露を採りに行き到る処撫子や月見草が咲き赤い蟹が庭先や台所口をはい廻っていた。引地川では勿論赤別荘附近の掘割でも鮒が釣れた。
  16. 旧尼寺(昔の慈教庵)さんところは、引地川から分かれた小川が流れてた。いまは暗渠になってしまっているが、鯉とか鮒がよくとれたし、蟹もいたね。
  17. その頃は、海には“わたり蟹”とかいった蟹が、海の水と川の水が混じり合っているところにいたものです。モクタカニとも言ったかなあ。「月夜の蟹は身がない」とかで、闇夜でないと蟹は取ってはいけないとかね。弁慶蟹と言って鋏の赤い蟹はよく見掛けましたよ。
  18. 渋谷 そうですね、これは大分後のこと昭和15年頃の話になります。当時沼間別荘と言っていました、そのあたりに寺門忠さん、この方は昭和14年頃橘通りの郵便局を建てられてその局長になられた方ですが、その方が今の広田弘毅さんの家の横手に住んでおられました。その寺門さんが「何か変なものが出る」当時すでに荒 れていた小田柿別荘を見ていましたら、その変なものは狢(むじな)でした、狸とはよく似ていますが狢が小田柿さんがお作りになった池のわきの洞穴でつがいで捕まりまして、しぱらく飼っておられました。「おい、渋谷さん、狢が出たよ。見ていけよ」などとおっしゃて、見せて貰ったことがありました。「ここらはヘビやカエルがいるから餌には困らないが、冬場の餌は困っちまうなあ」などと言って大変面白い方でした。
    高木 野兎は当時は随分おりました。
    有田(会員)  狸は今でも菊本別荘に出て来るそうです。リスもいるそうです。
  19. 波打ち際には、蛤、桜貝、塩吹き貝(しょんべん貝ともいったが、しゅっと水を吹き上げる薄紫の細長い貝)や、かに等が無数にいて、自然と人間の調和の世界であった。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 川上 清康:「鵠沼と私」『鵠沼』第4号(1978)
  • 高木 和男:『鵠沼海岸百年の歴史』(1981)
  • (匿名):「わがまちミニ紹介シリーズ」『鵠沼』第56号(1990)
  • 三輪梅三郎:「鵠沼の光と影 その3 郷土史あれこれ」『鵠沼』第56号(1990)
  • (匿名):「古老に聴く鵠沼の昔日」『鵠沼』第57号(1991)
  • 鈴木 武夫:「古老に聴く鵠沼の昔日パ一ト2」『鵠沼』第58号(1991)
  • 若尾  肇:「昭和一桁時代」『鵠沼』第66号(1993)
  • 若尾  肇:「鵠沼小学校の恩い出 続」『鵠沼』第67号(1993)
  • 渋谷 良之:「鵠沼に住んだ人たち~郵便・電報を配達した日々」『鵠沼』第77号(1998)
  • 関根 久男:「鵠沼随想」『鵠沼』第77号(1998)
  • 関根佐一郎:「昔の鵠沼の暮らし」『鵠沼』第90号(2005)
  • 大出 サキ:「昔の天金通り界隈 街並みとエピソード」『鵠沼』第90号(2005)
 
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