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御真影と奉安殿私は六三制第一期生だから記憶はないが(鵠洋国民学校は戦後の開校だから、初めから存在していない)、終戦前の学校には奉安殿という建物があり、中の金庫には御真影(皇族の肖像写真)と教育勅語が収められていた。登校してきた児童・生徒は、校門を入るとすぐ奉安殿に最敬礼してから校舎に入るのが慣わしだった。紀元節、明治節、天長節(天皇誕生日)などの行事には金庫が開けられ、教頭が紫色の袱紗に包まれた教育勅語を取り出して捧げ持ち、壇上の校長に渡す。校長は恭しく勅語を奉読する。その間、職員、児童・生徒は深々と頭を下げているといった光景が見られた。第0153話で紹介したように、藤澤町立尋常高等鵠沼小學校(1923(大正12)年度から藤沢町立鵠沼尋常高等小學校と改称)は、1913(大正2)年6月20日に新校舎が完成し、夏休み前に普門寺境内から現在地へ引っ越しが行われた。先年103歳で他界された大東の關根佐一郎氏は、児童全員で机椅子を運んだ様子を、懐かしそうに語っておられた。關根佐一郎氏はまた、「校舎の真ん中に奉安殿があり天皇陛下の写真が飾られていた。」と語る。この奉安殿が普門寺時代にあったかどうか不明だが、御真影の下賜は1910年代から一般化したというから、現在地移転後のことだろう。鵠沼小学校の記録には、1915(大正 4)年10月29日、大正天皇陛下御影下賜。1916(大正 5)年10月29日、皇太后陛下御影下賜とあるから(明治天皇の記録は見当たらない)、これがきっかけで奉安殿が建築されたのではなかろうか。 奉安殿建て替え昭和天皇の御大典は1928(昭和3)年11月10日、京都で行われたが、それに先立ち、同年10月2日に天皇陛下御影・皇后陛下御影が各学校に下賜された。これをきっかけに藤沢町立鵠沼尋常高等小學校では奉安殿の建て替えが企図されたらしいが、実際の建て替えは1931(昭和6)年になってから鵠沼青年團の奉仕で行われた。鵠沼青年團の記録によると、 「奉安殿造営工事奉仕 昭和三年聖上陛下御大典を挙げさせらるゝ青年団員は皆記念事業を為さんことを申出てたり学校中心のものとの念願に奉安殿造営工事奉仕となり、町が予算を計上し工事に着手の報あるや満場一致基礎工事奉仕を可決す、各支部より選出せられたる団員百四十四名熱心に事に当り七月十二日の創立記念日に落成したそのとき土屋技師の報告に 鵠沼小学校奉安殿落成するに当りまして其工事の経過を報告致しますのは監督者として寔に喜に堪へざる次第であります、本工事は昭和六年三月十三日地鎮祭り施行同月十五日工を起し昨七月十一日を以て工を竣へました費用合計二千二百六円でありました内町費一千二百四十八円有志の特別徴収九百五十八円を以て之に充てました 顧みますれば着工以来百二十余日其間青年団員の熱誠溢るゝ労力奉仕と之に従事する諸職人各位の真摯なる勤務に依り堂々県下に誇り得る建物を得ましたことは衷心より感謝する次第であります工事費の詳細なる計理は別紙を以て御手許に差上げ爰には尚単に工事の経過を御報告致します。 団員は常に吾町が里の為めとの考に充ちている、如何にせば我等青年として行くべき正当の道であるかを考へている、社会奉仕に修養に更に一段の考慮が必要であらう大方先輩の御指導と御鞭漣とを偏に希ふ次第である」 なお、この奉安殿は終戦後1946(昭和21)年になって撤去されたというが、正確な日付は判明していない。 また、奉安殿は湘南学園にもあったし、湘南中學、湘南家政実科女學校にもあったであろうが、正確な記録を入手していない。 | ||||||
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