|
海岸通りの藤ヶ谷橋現在鵠沼松が岡という住居表示になっている一帯、ことに一丁目から三丁目は《鵠沼海岸別荘地》の面影を色濃く残す地域として、1986(昭和61)年に神奈川県都市整備公園課から《かながわのまちなみ100選》に選ばれている。しかしこの一帯は、第0002話で紹介した地図や第0126話で紹介した写真を見れば判るように、明治中期までは茫漠たる砂原の無人地帯だった。全体に砂地で、北東―南西方向の砂丘のアンギュレーションが見られ、砂丘間低地では案外に地下水位が高かった(今でも高いはずである)。 別荘地開発時代には、先ず庭池を掘り、掘った砂を盛り上げてその上に建物を建てるのが常識だったという。 所々にはアシなどが生えた湿地があり、今井達夫の文によれば、大正に入っても狭いながらも水田が残っていた。 アシなどが生えた湿地は戦後まであり、そこの湧水は細流となって片瀬川に注いでいた。この細流は江ノ電開通後に整備された江ノ電鵠沼駅から海に向かう《海岸通り》を菊本別荘のところで横切っていた。菊本別荘では細流を庭に引き込んでいた時代もある。現在は南側を暗渠となっている様子が気をつけてみれば判明するはずである。 菊本別荘前で細流を横切る海岸通りに架けられた橋が《藤ヶ谷橋》である。 藤沢市史年表には1924(大正13)年11月のところに「鵠沼海岸通の藤ヶ谷橋開通式」と記載されている。他に藤ヶ谷橋に関する記載は市史本文を含めて一切ない。 しかしこれは、震災で破損した藤ヶ谷橋の復旧が完成したときのことと思われる。藤ヶ谷橋が架橋されたのは、海岸通りを敷設したときで、江ノ電開通の頃である。1895(明治28)年の地籍図には海岸通りは記載されていない。 岸田劉生の『日記』の1921(大正10)年8月31日には鎌倉に行こうと鵠沼停車場に行ったら、来た電車が片瀬止まりだったので鎌倉行きを取りやめて藤ヶ谷橋の方を散歩して帰宅したとあるから、少なくとも劉生の時代には藤ヶ谷橋があったことは明確である。 大曲の角海岸通りを海に向かうと、小田急を渡る100mほど手前に鵠沼松が岡1-16・17と2-14・19に囲まれた交差点があり、ここを「大曲(おおまがり)」の角という。このことは既に第0013話で紹介したが、補足を加えよう。この地名は地図には載っていないが、地元ではタクシーの運転手なら知っている(知らなかったらモグリだ)。 この角から先にはかつてかなり小高い砂丘があって、海岸通りは急な坂になっていた。のちにこの砂丘上に瀟洒な邸宅を建てて住んだ長谷川巳之吉(別項を立てて後述する予定)は、この坂を《富士見坂》と名付けたという。 小田急の開通によってこの砂丘は削られ、坂もかなり緩やかになったが、その前までは人力車でこの坂を越えるのが困難だった。江ノ電鵠沼から客を乗せた車夫は、この角を右折し、仲通り(有田商店の脇の道)まで出て左折、東屋や中屋などに向かうのが常だった。そのため人力車が大きく曲がるので大曲というのだという説が地元では伝えられている。. しかし、この説には私は異論がある。 合併して大仙市になってしまった秋田県大曲市をはじめ全国には大曲という地名が散在する。神奈川県内でも寒川町南部に見られる。大曲地名のことごとくは、河川の大きな曲流部につけられているというのが地名学の常識である。 鵠沼の大曲も、片瀬川の大きな屈曲点に近い。すなわち単に交差点につけられた地名ではなく、片瀬川屈曲点の大曲にある交差点であり、大曲地名はもっと古くからあった地名だと思う。ただし、残念ながらそのことを証拠立てる地図に接したことはない。 ところで、関東大震災当時、この大曲の一帯は松林で、人家はなかったようである。 第0239話の「団員のおんぼやき(これは差別語とされるが、原文通りに転載した)」で紹介したように海岸別荘地だけで圧死者47名を出した。これを「翌二日の正午頃には四十七の棺箱が、づらり海岸大曲なる一広場に並ぺられた」とある。そして自警団の手で荼毘に付されたのである。その指導に当たったのが退役海軍大佐の松岡静雄だったと伝えられている。その慰霊のために大曲には小祠が祀られ、戦後まで残っていたというが、いつの間にか失われた。 ここは、鵠沼における心霊スポットと見る向きもある。 | ||||||
|