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第0247話 慈教庵移転

慈教庵の倒壊・流失と移転

 第0155話で紹介したように、1903(明治36)年9月に颯田本眞尼によって下鰯の細川別邸内に建てられた慈教庵は、1923(大正12)年9月1日の大正関東地震のため倒壊し、津波の引き波で流失した5軒の一つとなった。
 そのことによって、旧柳原5843。現鵠沼海岸7-1に翌年1月に仮本堂が建てられたといわれており、藤吉慈海:『颯田本真尼の生涯』によれば、 「本堂の竣工が成って間も無く、大正12年9月1日の関東大震災で、その本堂も丸潰れになってしまった。老尼はそのとき丁度廊下を通ってい られたが、あの最初の衝撃で庭先きへはねとばされてしまった。当時七十九歳の老尼は不思議に傷一つおわず、すぐさま本堂へゆかれ、潰れた屋根をはいでみられると、御本尊さまは天井板を破って何の変わりもなく安祥としてお坐りになっていた。老尼は感激のあまり合掌礼拝して、早速本堂の再建にとりかかり、翌年一月には場所をすこし移転して現在の本真寺の位置に仮本堂の再建を完了した。」とある。
 ということは、細川別邸内に震災の直前に本堂が完成しており、それが倒壊、流失したのでああろう。「場所をすこし移転して現在の本真寺の位置に」とあるが、私には「すこし」ではなく「かなり」に見える。
 この「御本尊さま」については、次のような逸話が残されている。「老尼は鵠沼のお寺の御本尊さまは新しいお仏像がよかろうと思われた。というのは、都会の人はお雛様を見るくらいの気持で仏さまを見ているうちに、次第に仏さまを拝むようになるので、御本尊さまはきれいな新しい仏さまにしようと思い、岡崎の丹波さんという絵師を訪ねられた。この方は本真尼から「仏さまの絵を画いていると仏さまのような心になれる」と聞いて仏画師になった位の人であるから、早くから老尼に帰依していられた。丹波さんの家に入ると、沢山の仏様の首が並んでいるので、「丹波さん、あんたは彫刻もするのか」と尋ねられた。すると、「いや、実は先夢を見まして、関東一円を教化される有難い仏さまのお姿を拝みましたので、そのお顔をこうしてお刻みもおしているのです」といって、それらの仏さまのお顔を指差された。老尼もその志に感じて、御本尊さまのお顔は丹波さんに彫って戴くことにきめられ、胴体は京都の小泉という仏師屋に依頼された。そして、出来上がったものが今日の鵠沼本真寺の御本尊さまである。(中略)
 老尼は不思議に難をまぬがれたが。もしも御本尊さまがつぶれていたら再建はしまい、しかし、もし御無事でいられたら再建しようと決心して、潰れた本堂の瓦をはいで見られると、如来さ まは天井の板を突きぬけて端然として坐っていられた。老尼は思わず膝まづき合掌礼拝して、早速再建にとりかかる決意をされた。しかし、ここは海岸に近すぎて危険だというので鵠沼柳原(鵠沼海岸7-1-7)に移転し、五ヵ月足らずのうちに庫裡が出来上がった。それから本堂再建が始められたが、その完成を見ず老尼は遷化された。」
 いずれにせよ、この段階では小田急は開通していなかった。現在の本堂が完成したのは1935(昭和10)年4月になってのことである。従って、1928(昭和3)年8月8日の颯田本眞尼入寂がきっかけで、1929(昭和4)年の小田急線の開通後本堂の建設位置が確定したのではあるまいか。
 その後、颯田本眞尼に因んで、慈教庵から夢想山本眞寺と改称されるが、それがどの時点からかは調査していない。

慈教庵年表
西暦 和暦 記                        事
1903 明治36 9   下鰯の細川家別邸内に慈教庵建立。開山は颯田本眞尼(1845-1928)
1923 大正12 9 1 慈教庵、大正関東地震のため倒壊。津波の引き波で流失。
1924 大正13 1   颯田本眞尼、関東大震災で倒壊した慈教庵を現在の本真寺の位置に移し、仮本堂を建立
1928 昭和 3 8 8 慈教庵開山=颯田本眞尼(1845-1928)、入寂 享年84
1935 昭和10 4 慈教庵(後に本真寺)本堂完成
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 塩沢 務:「颯田本真尼と鵠沼慈教庵」『鵠沼』44号(1988)
  • 藤吉慈海:『颯田本真尼の生涯』春秋社(1991)
 
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