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第0239話 藤沢町震災誌

 鵠沼を語る会の会誌『鵠沼』第50号は、「震災誌」と銘打って関東大震災に関する5本の記事を掲載している。
 今回はその冒頭に掲げられた藤沢小学校校長仙田四五郎氏の記録された「藤沢町震災誌」から鵠沼地区に関する部分について抄録する。

藤沢町震災誌(鵠沼編)

      惨たる藤沢町の被害  
1,学校 鵠沼小学校:全潰 湘南(ママ)実科女学校:半潰 (湘南中学校記録なし)
2,官衙 鵠沼にはなかった 
3,神社 皇大神宮:拝殿倒潰 (賀来神社・石上神社は記録なし)
4,寺院 法照寺:全潰 慈教庵:全潰 (万福寺・空乗寺・普門寺は記録なし)
5,銀行会社工場其の他 鵠沼については記録なし
     道路の被害
     石上から鵠沼海岸に至る町道
 此の道路のうちでも殊に酷くなったのは、川袋の電車停留場から線路に沿うた二丁程の間である、前にも述べた通り、酷くなった箇所は川の側とか田圃中とか比較的地盤の脆い所であるが、この道路も非常に地盤がよくなかった、一方は田圃、他の一方は旧の境川此の間に電車の線路と道路とが並行して造られていたのであったが、それにもせよ、あの惨状を見ては誰でも吃驚しないでは居られない、水の面よりは一間半程も高かった土砂がすべり、広がって殆ど水面と等しいまでになってしまった。旧境川の中には緑の葦が生い茂って居たのだが、すべり込んだ土砂の為に半は埋められてしまった。そして道路は形もなくなってしまった
     鵠沼海岸の惨状
 藤沢町が鵠沼海岸別荘地を持って居ることは将来発展の為にどんなに力強いことであったか知れない。数年前までは別荘の数もごく僅かであったが、近々5,6年の間に非常な発展をした、京浜の人々が争って別荘を造ったので其数はやがて六百にもなろうとする勢いであった。殊に今夏は東久邇宮妃殿下の御避暑.久邇宮良子女王殿下(新皇太后)のご来遊等先例のない光栄に浴したので、土地の人々は勿論、町としても非常に喜んでいたのだ、然るに噫!大地一たぴ震動して後の鵠沼海岸は見る影もない有様となった、思へば思ふほど残念である。震災後の一日、私は此の海岸別荘地の様子を見に行ったことがある。電車を下りてあちらこちら歩いて見たが実にひどいものだ。地面は到るところ隆起し陥没し亀烈を生じて激震の当時をありありと物語っている、白い砂の上に枝ぶりよく栄えていた松は右に左に傾き倒れて根をあらはしている。緑松の間に点々と散在していたきれいな建物は殆んど全部といひたいまでに潰れている四辺の井戸や池僻下から噴き出した砂で大ていは埋つていた。地震の時には井戸や池ばかりでなく海岸一帯の土地がぶくぶくに弛んで到るところから水を噴き出したそうである。『鵠沼海岸は方々から水か噴き出して大洪水だ』といふのがあの当時専らの噂であった。津波は話程ひどくはなかったらしい。海岸の砂山が流された位のもので、他には別段これに侵されたらしい所も見えなかった。別荘の人々はいづれへか引上げてしまったらしくどこを歩いて見ても人影が少ない。何となく心細い感じがした。然しあくまで踏み留まって此地の為に奮闘しやうとしている人もあると聞いて非常に心強く思って帰った。
希くは再生の鵠沼海岸に幸多かれ!
    鵠沼海岸自警団の奮闘
 鵠沼海岸目警団は、今から約一年前に組織された一自治団体であって今度の震災によって突然に生れた所謂自警団なるものとは全然色彩を異にしている。過去一箇年の訓練が効を奏して着々成績の見るべき者があった。団長は有田金八、副団長は中野一郎、此の上に顧問広岡助五郎氏があって、専心此の自治体の発展に腐心されていた。本年七月、東久邇宮妃殿下が、当町鵠沼海岸なる吉村別邸に御避暑遊ぱさるゝや、自警団は光栄此上もなしとて毎日団員二名づつをして、これが警護の任に当らしめた。七月八月あの海辺に遊んだものは誰でも海水浴場の付近を巡警する制服姿の自警団員を見たことであろう。
     家を捨て妻子を捨てゝ急遽宮家へ
 9月1日、正午、突如の大震は此の地を襲ふた。其の瞬間電の如く団員の頭に閃めいたのは宮家の御事である。団長有田金八、副団長中野一郎他に関根吉五邸、菊地清次邸の四団員は、倒れたおのれの家を捨て、泣叫ぶ妻子を其まゝにして急遽宮家へと走ったのである。時既におそく吉村別邸はもろくも倒潰して、妃殿下を始め奉り、王子方侍女ことごとく下敷とならせられているのであった。御側附の方々は気をいらって御救助につとめやうとしたが、あまりに突然の変事なので道具といっても見当たらず暫しは如何ともなす術はなかったのである。騒けつけた自営団員は挺子よ、きりんよと走りまはった。幸にも妃殿下は、階上の御間に居らせられたので、微傷だも負はせられず御救ひ出し申すことが出来た。先づ一安心と息つく暇もなく実に渾身の力をつくして王子殿下の御救助に努めたのである。もう少しという其の刹那、遙に襲ひ来る海鳴りの響き、妃殿下も危ないと御懸念遊ぱされた御模様であったが、もとより死を決した人々である。海鳴物かは、と押し寄せる潮をながめ乍らも挺子持つ手を弛めなかった。苦心惨憺、暫くにして御出し申したが、何たる御痛はしい御事であらう。此の時既に師正王殿下には壁間に御窒息遊ばされ眠れるが如き御姿で永の御旅に御成の後であった。母宮殿下の御心中や如何に?たゞ御存命なれとのみ祈った人々も、あまりの御いたはしい、有様を拝して、涙の袖をしぼらぬものはなかった。
     団員のおんぼやき
 鵠沼海岸は、此の付近としては、最も惨害を極めた場所であって、地震の程度も余程ひどかったものらしい。僅かに海岸別荘地だけで圧死者47名を出したといふ。秋とはいふものゝ9月1日、まだ避暑客の余程多かったあの日、突如の激震に家は倒れ海鳴は襲い、老若男女は幾百人となく家の下敷きとなった。救いを求むる悲鳴の声は各所に聞えてさながら阿鼻叫喚の巷となった。日頃訓練された自警団員は、すはこそ一大事と手に手に挺子をふるって彼方に此方に走りまはり人命救助に努めた殊に不幸な変死者の死体処置に至っては涙の出る様な美談が残されている。当日午後3時、あの恐怖混乱の中に早くも、広岡家の門前には、死体取扱所と記された札が立てられていた。前後に迷ふ変死者の遺族等は何処にと便るぺき所もないので、皆此の立札を目がけて集つて来た。広岡家の門前は一時これらの人々で大混雑を極めた。団員は夜を徹してこれ等死体の納棺につとめた。驚くぺし、翌二日の正午頃には四十七の棺箱が、づらり海岸大曲なる一広場に並ぺられた。何処の葬犠屋へ駆け付けても棺箱が間に合はぬ。親が死んでも子が死んでも二日も三日も其の儘にされていたあの時、あの際、この目覚ましい奮闘は、実に感服の外はない。団員遺族御通夜のうちに二日の夜は明けた。死者を弔う涙の雨三日の午後の海岸はまことに淋しいものであった。並ぺられた四十七の棺箱からは異様な臭気が漏れ始めた。顧間広岡氏は之を案じて、遣族の人々に図ったが、感涙にむせんでいる遣族はただ、『何分よろしい様に。』との外、何の言葉もない。こLに於て広岡氏外団員一同は決然として起った。『よし、それぢやあ焼いてしまひませう。私どもにまかせて下さい。』かう言って其翌日、四十七の死体をいと鄭重に茶毘にふしたのである。団員は汗を流して遠い本村から二千杷の薪を担いで運んだ堀川部落の葉山又兵衛氏は、此美挙に感じて部落の消防組合員数名を派遣して、これが援助に力を貸された。愈々茶毘にふされるという時には遺骨の間違ふことをおそれて一々しるしがつけられた。浅野佐藤二巡査は熱心にこれを監視された。これを本所被服廠跡の枡測りの骨に比ぶれば如何程幸なことであったか知れない。一朝無常の風に見舞はれて黄泉の旅におもむいた四十七の魂もどんなにか満足して其の足を運んで行った事であろう?翌5日、遺骨を受取るべく集った遺族は、至れり尽くせりの此の始末には、唯感涙にむせぶのみであった。此の他、自警団は、宮家の御警護、食料の配給、夜警等、すぺてにつて遺憾なき活動をした7日の夜12時、宮内省から御使いがあって、翌日8日、宮家御帰京との報を受けた時など、連日連夜の活動に身も心も疲れはてているにもかかはらず、夜中、彼方此方と駆け廻って舟を探し歩いたのである。つなみの為に海岸の舟は殆ど流失、又は破壊されてしまつていたのだ。宮家の方々を駆逐艦まで御送りする端舟がなかったので探廻った訳である。東久邇宮家におかせられては、かうした目警団の活動を、至極御満足に恩召され、御帰京後間もなく、感謝状を賜った。
     感 謝 状
当宮妃殿下ニハ盛厚王師正王彰常王三殿下御同伴相州鵠沼海岸所在衆議院議員吉村鉄之助別荘へ御避暑御滞留中即大正十二年九月一日午前十一時五十八分頃大震ノ瞬問家屋倒潰各殿下御遭難アラセラレタル際其他自警団員ハ自家ノ危急ヲ顧ミス迅速現場ニ駈ツケ宮職員ト共ニ救護ニ盡力且ツ諸事応援便宜ヲ与ヘラレタル段御満足ニ被思召候条此段御挨拶申進候  敬具
  大正十二年九月
         東 久 邇 宮 附
            宮内事務官   金 井 四 郎
  鵠沼海岸
    自  警  団
         御   中
     他ニ宮家御紋章入大銀杯一個
     金壱千弐百圓御下賜
 本誌編集委員は、震災後の一日此の美しい事実の詳細を尋ねる為め、顧問広岡氏を訪ねた。邸内足の踏みぱ場もなき乱雑の中に、氏は何やら片付け事をして居られたが、心よく我々を迎へていろいろと話をかはされた。日に焼けた氏の顔は連日の奮闘を語るものの如く、輝き光って見えた。氏は引きしまった口をおもむろに開いて、次ぎの様に語る。
「いえ!自警団といっても今度の事は自警団ぱかりといふ訳ぢやないのです。青年団、自警団、其の他居住民全部の働きなのです。え!自警団の創立ですか?それは昨年の十月頃でした。まだ西坂署長の居られる頃で、いろいろ御盡力に預りました。名称こそ自警団といって居りますが実を申しますと、団員の大部は青年団員で、中若干名の在郷軍人が居ります。いはば青年団、在郷軍人会の変形といったやうなものですね。修養ですか?此の方面は取立ててやってるといふ程の事もありません、創立当時から五参会といふのをやって来ました。毎月五の日に会員全部が集会して、意見の交換をするのです。時には名士を招いて講演をして貰うといふ様な事もやって来ました。今度の変事に際しましても、比較的秩序立つて働けましたのは、今までのこんな催しが、幾分役立つているのかも知れません。会則?会則といってもあるにはありますが、そう大した成文はないのです。所謂親分子分という様な関係から成立って居りますので、幹部の命令に良つて気持よく働いて行きます。創立の当初は幾分、不純な分子も見えましたが現在では、殆んど共同一致して世話なしに働いて行くやうになりました。まあ此の點だけは自慢出来るかと思って居ります。宮家の御遭難?いやもうこれに尽きましては会員一同全く恐懼して居る次第です。七月以来、専心御警護に努めてはきたのですが、天災とはいへ今度のやうな御遭難、何とも申し上げる事が出来ません。然るに宮家からいと御鄭重な感謝状、其上多額の金圓まで賜りまして会員一同、今更乍ら宮家の御厚情に感激して居ます。在住者に対する災後の応救策としましては大体次のやうなことです。宮家御滞在といふ縁故で静岡県知事から白米五十俵、食塩二十俵の見舞を受けましたので、これを第一回として配給いたしました、其後、宮家御下賜金の内を幾分さいて、白米の配給をやって居ります。現在は軍隊と協力して夜警を努めている位の者ですが及ばず乍ら、今後も復興事業に献身的努力をいたす覚悟で居ります。』語り終へた氏の面には、赤い血潮が漲つていた。

※この記録には記されていないが、遭難者の遺体の荼毘の指揮及び東久邇宮師正王の遺体搬送のための駆逐艦廻航については、第0230話で紹介した退役軍人の松岡静雄が活躍したことを付記しておこう。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 仙田四五郎(藤沢小学校校長):「藤沢町震災誌(鵠沼編)」『鵠沼』第50号(1989)
 
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