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第0238話 関東大震災

 今年の3月11日起こったM=9.0の巨大地震は、気象庁によって「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と命名された。 これによって引き起こされた災害は、政府の持ち回り閣議で「東日本大震災」と名付けられた。
 すなわち、地震とそれによって引き起こされた災害とは呼び方が違うのである。
 第0237話で採り上げたのが大正関東地震であり、今回から何回かに分けてそれによって引き起こされた災害、すなわち関東大震災について話題にする。

関東大震災

  1923(大正12)年9月1日11時58分32秒、神奈川県西部を震源として発生したM7.9の「大正関東地震」によって、震源に近い鵠沼では震度7の激震に襲われた。
 これによって鵠沼の家屋の多くは倒壊した。当時の建造物は木造がほとんどで、学校などの公共施設も例外ではなかった。鵠沼には鵠沼尋常高等小學校と神奈川縣立湘南中學校があったが、いずれも全壊している。
 正午直前に起こったので、昼食の準備時間にあたっていた。当時は都市ガスはまだなく、薪炭を燃料に竈や七輪を用いて炊事をしていたが、鵠沼では奇跡的に火災は1件しか記録されていない。東京や横浜では家屋の倒壊よりも大火による焼失が災害を大きくしている。また、火災が起きなかったため、倒壊家屋の古材を利用することができたので、家屋の建て直しも容易で、経済的にも恵まれていた。
 地下水位が比較的高い鵠沼海岸別荘地(現鵠沼松が岡一~四丁目)では広範な液状化現象が見られ、これによる倒壊も多かったと思われるが、それを区分したデータは残っていない。各別荘の井戸や庭池では砂混じりの地下水が噴き上がる噴砂現象が見られた。
 地震発生の数分後、鵠沼海岸には7m台の津波が押し寄せた。現在の鵠沼海岸一~二丁目の砂浜には標高10m程度の海岸砂丘列があったため、津波はその砂丘を浸食しながら肥上道付近まで達し、東屋の庭池にも海水が入り込んだ。鵠沼海岸三丁目には「淺場の田圃」と呼ばれる細長い水田があり、津波はそこを伝わって現在の小田急線の線路あたりまで達した。津波は引地川を遡上し、清水橋付近まで達した。浜辺に置いてあった地曳き網の和船が8艘、現在の八部公園あたりの「堀川田」まで運ばれて、水田上に転がっていたという。堀川田は海水を被ったため、しばらくは使用不能になった。
 津波の引き波により、海岸近くの硲別荘、藤堂別荘、田中別荘、細川別荘と細川別荘敷地内にあった慈教庵の5軒の建造物が流失している。
 鵠沼海岸では約90cmの地盤隆起が見られ、300m以上の海退が見られ、砂浜の面積が拡大した。これにより飛砂の害が増大し、1928(昭和3)年の県の御大典記念事業として「魚附砂防林」の植栽が行われた。
 この震災による鵠沼の一般民間人の死亡者は、47人が記録されている。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 神奈川縣:『關東大震災特ニ鵠沼別荘地ニ於ケル状況』大正十三年一月十五日神奈川縣地震調査報告(1924)
  • 阿部良夫:「關東大震災特ニ鵠沼海岸別荘地ニ於ケル状況」震災豫防調査會報告. 第100號(甲)(1925)
 
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