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第0233話 鵠沼文化人百選 その020 國木田虎雄

 國木田虎雄について、文化人百選に入れるべきかは随分迷った。鵠沼における動静がほとんどつかめない人物だからである。

プロフィール

  國木田虎雄 (くにきだ とらお 1902-1970)は詩人・小説家  東京出身
 小説家=國木田獨步の長男。母親は『青鞜』賛助員の小説家=國木田治子である。
 病気で中学中退。「日本詩人」「楽園」などに作品を発表。大正11年版「日本詩集」に「渚」「樹蔭」「櫟林」などが収載されている。詩集「鷗」のほかに独歩関係の著作など。昭和45年死去。68歳。

鵠沼とのゆかり

  鵠沼に来たのは震災前で、当初本村の農家の離れに住み、今井達夫と親交を持った。今井達夫の文章に時折書かれているが、住所は点々としたらしい。震災時に自宅が倒壊した著名人の中に岸田劉生と國木田虎雄の名が並んで掲載されている。
 震災後、松本別荘(現鵠沼松が岡四丁目)の岸田劉生宅が建て直された家屋に住んでいたらしい。1926(大正15)年、東屋の貸別荘イ-4に住んでいた芥川龍之介が、國木田虎雄が転居する噂を聞きつけ、借り換えようと視察に来たときのことが、後に『悠々荘』という作品になったという話がある。
 松本別荘から鵠沼を離れ、大田区の《馬込文士村》に住むようになる。
 戦後は鎌倉に移り住み、《鎌倉文庫》で働いていたらしい。その後、《藤沢病院》(精神科)に10年ほど勤務していた。
 今井達夫の文章には断片的な記載ばかりだが、ある程度まとまった文として下記を紹介しておく。

国木田虎雄 今井達夫

 「この名前をご存じのかたは、今となれば随分すくなくなったであろうが、独歩の長男と紹介すれば、ああとうなずいていただけるであろう。
 彼が鎌倉の寓居で死去したのは、おととしの晩秋だから、もう一年半になる。私より二歳年上の彼とは、たがいにハイティーン時代からの友人で、つまり、きっちり五十年のつきあいであった。彼と知り合ったのは大正十年春で、そのころ彼は福士幸次郎の楽園詩社の同人として詩を書いていた。
 文字をえらぶことに全神経を集中し、彫琢をきわめたその美しい詩は、「新潮」誌上にしばしば掲載され、ついには大正十一年には「鷗」と名づけた詩集一巻となって上梓、これも新潮社発行であった。独歩の最後の病床につきそっていた中村武羅夫が「新潮」を担当していたからでもあったろうが、その信頼に十分こたえ得る作品であった。
 楽園詩社の仲間にはサトウハチロー、永瀬三吾などがいて、その連中とも親しくなった私は、よく国木田の消息を訊かれたものだ。そういうとき私は表情を硬くして答えた。
 「ああ、彼は現在、藤沢精神病院にいるよ」
 すると、みんな一様にぎょっと顔いろを変え、いたましそうな表情になる。そこで私は微笑をうかべる。
 「つまり、その病院の看護長のポストにいて、給料をもらっているんだよ」
 みんなその途端にホッと緊張を解くが、入院しているとうけとっても不思議はない、するどくデリケートな神経の持主だった若いころの彼である。この話はもちろん戦後昭和三十年代のことだが、彼はその病院に十年つとめて退任した。
 「鷗」以後、関東大震災後には詩から小説にかわり、幾篇か発表したが、文筆生活から遠ざかったのちの彼は、思想的につきつめていたように思う。彼については五十年の思い出がかさなっていて、容易に書き切れるものではない。ここでは遅ればせながら追憶の心持を表するのみである。」
                                      1972(昭和47)年4月20日『毎日新聞』「茶の間」欄
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 1972(昭和47)年4月20日『毎日新聞』「茶の間」欄
 
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