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網野 菊1900(明治33)年1月16日~1977昭和52)年5月15日は小説家。東京麻布生れ。父亀吉、母ふじのの長女。家は馬具製造販売業。39年赤坂尋常小学校に入学の年、母、家を去る。翌年「二度目の母」、かま、来る。私立千代田高女在学中、国語教員伊藤康安先生、国語作文の才を認められた。1916(大正5)年日本女子大英文科に入学。1919(大正8)年末から正月にかけての冬休みの二週間を卒業論文書きの名目で、同級生と同伴で鵠沼海岸、慈教庵尼寺で過ごす。1920(大正9)年英文科卒業。 1922(大正11)年夏、義祖母、弟妹たちと鵠沼で間借りして過ごす。 1923(大正12)年、湯浅芳子とともに福島県の信夫高湯に濡在中、関東大震災があり、帰京の途次、「一期の思い出に」(自筆年譜)、京都粟田口に志賀直哉を訪ねた。生涯の師である。 1930(昭和5)年、早急な結婚と共に満州奉天に居住。 1936(昭和11)年3月、満州を引き上げ、東京に居住。翌単身父の家に移り、1938(昭和13)年正式離婚。 1942(昭和17)年刊行の『若い日』、1947(昭和22)年刊行の『海辺』に大正8年ころの鵠沼の様子が描かれている。 網野 菊:『海辺』十二月末という上に薄雲った日なので、早く暮れかけていた。松ノ木の多い砂地の道には、二人の乗った俥以外には殆ど人通がなかった。前の俥の春子は切りに俥夫と話している。後ろ俥の悌子は、時々風の工合で聞えて来る春子の言葉を聞くともなしに聞き乍ら、東京の家の事を思った。旅慣れぬ悌子は、東京から汽車で二三時間しかかからぬ此の土地に来て、既に旅愁を覚えるのであった。又、これから訪ねて行って其処で数日を過す筈の尼寺(※下鰯5250慈教庵,鵠沼海岸3-12)についての色々の想像が悌子の心を重く圧しっけた。 時折松林の間から大きな別荘の屋根だけが見える。小さい橋渡る(※海岸通り藤ケ谷橋(菊本邸前・現在暗渠))。道を折れる。(※大曲)また松林。灰色の洋館が現れる。待合かと思われる様な酒落た造りの別荘や、低い垣越しに大きな池の見える別荘がある。 駐在所、郵便局、(※熊沢屋酒店付近)再ぴ松林。それから道は右に折れて、今度は小さい店屋が続いた。駄菓子屋、髪床、荒物屋、等々。其の道の突き当たりにみすぽらしい農家風の家が見える。どう見ても其の家より外には尼寺と見当のつく家はないので、あんな所かと思って、悌子は一図がっかりしたが。道は両側畑の道にはいった。右側の畑は広く、その向うに松林があった。左側の畑は狭く、直ぐ大きな別荘に接し、別荘の中には赤い温室の屋根が見える。其の畑道を少し行った右側に小さいしもたやが四五軒かたまっていて、其の一とかたまりの屋根の端に一と際高く、寺風の屋根が浮き出ていた「あ、あれだ、今度こそ本当だ。」と悌子は思って安心した。安心すると、今度は此の灰色の空の下の静かな道を、此の儘もっと俥にゆられて行きたい様な気持も覚えた。 寺の入口には、真直な松の木が数本立っていて門の代りをしている。極く低い、形ぱかりの石段があり、石段の脇にわ「不許葷酒入山門」と堀った三尺程の高さの石が立っている。 庭はガランとして少し殺風景な感じで、庫裡の前の一本の白梅の花だけが目立った。 本堂にはもう雨戸が閉まり、本堂と向かい合って、渡廊下でつながれた庫裡でも、階下は戸締りがしてあり、唯二階の一間にだけ、陣子に薄赤い電燈の光がうつっていた。(以下略) |
網野 菊 略年譜 |
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西暦 | 和暦 | 月 | 日 | 記 事 |
1900 | 明治33 | 1 | 16 | 網野 菊、父亀吉、母ふじのの長女として東京麻布に生れる |
1906 | 明治39 | 赤坂尋常小学校に入学。母、家を去る | ||
1907 | 明治40 | 「二度目の母」、かま、来る | ||
1912 | 明治45 | 私立千代田高等女學校に進学 | ||
1916 | 大正 5 | 日本女子大學英文科に入学 | ||
1919 | 大正 8 | 12 | 網野 菊、卒業論文制作のため、河崎なつ子と冬休みの2週間を鵠沼慈教庵に滞在 | |
1920 | 大正 9 | 日本女子大學英文科卒業 | ||
1920 | 大正 9 | 12 | 『秋』を国文館より自費出版。母校の同窓会団体「桜楓会」機関紙「家庭週報」の編集部に勤める | |
1921 | 大正10 | 日本女子大學で英語の授業に当る。「婦人公論」の懸賞短編小説に応募『蕎麦の種子』を発表 | ||
1921 | 大正10 | 義母死去 | ||
1922 | 大正11 | 4 | 早稲田大學露文科に聴講生として在籍 | |
1922 | 大正11 | 夏 | 義祖母・弟妹たちと鵠沼の農家に間借りして暮らす | |
1923 | 大正12 | 第三の母、汎子を迎える | ||
1923 | 大正12 | 9 | 湯浅芳子とともに福島県の信夫高湯に濡在中、関東大震災。京都粟田口に志賀直哉を訪ねる | |
1925 | 大正14 | 文藝春秋に『家』、文芸日本に『声』を発表した。早大聴講をやめる | ||
1926 | 大正15 | 中央公論に『光子』を発表。2年間奈良に住む | ||
1927 | 昭和 2 | 改造に『純一の手紙』を発表 | ||
1928 | 昭和 3 | 義母死去。祖父朝吉死去。女人芸術に『ネッディ』を発表 | ||
1929 | 昭和 4 | 第四の母、来る | ||
1930 | 昭和 5 | 結婚と共に満州奉天に居住。改造に『慶子と祖父の死』を発表 | ||
1931 | 昭和 6 | 志賀に送った『異邦人』が相原菊子の名で文藝春秋に発表 | ||
1932 | 昭和 7 | 文藝春秋に『街の子供』を発表 | ||
1936 | 昭和11 | 3 | 満州を引き上げ、東京に居住 | |
1937 | 昭和12 | 単身父の家に移る。『懸賞』など書く | ||
1938 | 昭和13 | 正式離婚。『妻たち』を書き上げる | ||
1940 | 昭和15 | 春陽堂から短編集『汽車の中で』を刊行 | ||
1941 | 昭和16 | 『ことづけもの』『夢』『病気』『子供』などを書く | ||
1942 | 昭和17 | 3 | 『若い日』を著す。大正8年鵠沼慈教庵での生活を描写 | |
1942 | 昭和17 | 実業之日本社からギャスケル夫人著『シャーロット・ブロンテ伝』の訳発刊 | ||
1943 | 昭和18 | 現代文学に『すて猫』発表、東晃社から『妻たち』、昭南書房から『雪の山』発刊 | ||
1946 | 昭和21 | 世界に、「愚きもの」「新人」「いとこ」「暁鐘」「初空襲」「家庭週報」「郵便屋さん」「新文学」「お妾横町」発表 | ||
1947 | 昭和22 | 父肺炎で死去 | ||
1947 | 昭和22 | 『海辺』(三島書房)を著す。大正8~9年の鵠沼を描写 | ||
1948 | 昭和23 | 『花束』(雄鶏社)を著す | ||
1958 | 昭和33 | 『幸福ということ』(竜南書房)を著す | ||
1961 | 昭和36 | 『さくらの花』(新潮社)で芸術選奨文部大臣賞、女流文学賞 | ||
1962 | 昭和37 | 『冬の花』(三月書房)を著す | ||
1964 | 昭和39 | 『ゆれる葦』(講談社)を著す | ||
1967 | 昭和42 | 『一期一会』(講談社)で読売文学賞、『白文鳥』(土筆社)を著す | ||
1968 | 昭和43 | 日本芸術院賞 | ||
1969 | 昭和44 | 『網野菊全集』(全3巻) 講談社より発刊。芸術院会員となる | ||
1971 | 昭和46 | 『遠山の雪』(皆美社)を著す | ||
1972 | 昭和47 | 『心の歳月』(新潮社)を著す | ||
1973 | 昭和48 | 『雪晴れ 志賀直哉先生の思い出』(皆美社)を著す | ||
1975 | 昭和50 | 『陽のさす部屋』(講談社)を著す | ||
1977 | 昭和52 | 5 | 15 | 腎不全のため78歳で死去。墓所は青山霊園 |
1978 | 昭和58 | 『時々の花』(木耳社)を著す |
E-Mail: |
鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
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