|
麗子・龍之介・康成の脈をとった文化人医師1933(昭和8)年に刊行された『現在の藤澤』には、「藤澤珍名番付」というというページがあり、その東の大関すなわち筆頭に富士山(ふじたかし)氏が選ばれている。『劉生日記』1923(大正12)年8月17日に次の記載がある。 「今暁一時頃麗子が急に九度の熱になる。福田さんへ使にやりリチネをのませる。(中略)朝になったが熱去らずひる頃福田さんへ行ったら夕方来る由、(中略)夕方ではたよりないので富士さんといふ医者を呼ぶ。はじめての人だが親切そうな医者也。去年あたり鵠沼に開業した人。」 岸田家に往診したときは富士医師はまだ二十歳台だった。関東大震災を経て大正末期、東屋北側の貸別荘イ-4号に短期間住んだ芥川龍之介の診療をし、芥川の紹介状を携えて訪れた川端康成も診ている。このことについて後に『文藝春秋』に寄稿しているがこれについては別項を立てよう。 湘南学園設立についても尽力し、自ら校医を引き受けた。 診療所は戦前で閉鎖し、軍需産業となった(株)東京螺子製作所に入社。予防衛生研究所長・厚生保健部長・診療所長として活動する。 戦後は神奈川県労働衛生協会初代会長に就任。その後も神奈川県結核審査協議会委員、神奈川県民生部保健課地方技官、神奈川県社会保険診療報酬支払基金審査員、神奈川県国民健康保険団体連合会診療報酬支払基金審査員、 神奈川県医療扶助審査会委員、神奈川県民生部保護課技術吏員などを歴任した。 1976(昭和51)年7月1日を以て一切の公職を退き、以後は鵠沼を語る会の古参会員として活動された。 1991(平成3)年1月24日、富士 山氏は96歳の天寿を全うされた。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|