HOME 政治・軍事 経済・産業 自然・災害 文化・芸術 教育・宗教 社会・開発


第0210話 鵠沼に電話開設

鵠沼に電話開設

 加藤徳右衛門:『現在の藤澤』(1933)によれば、1920(大正 9)年8月1日に「鵠沼に電話開設」とある。
 当時はもちろん手動式で、郵便局内に交換機が設置され、交換手が配置されていた。従って第0203話で紹介した鵠沼下岡6660番地(鵠沼松が岡3-23)の鵠沼郵便局内に交換機があったわけである。
 この開通当時には鵠沼に何台の電話機があったかのデータは見つけていない。上記『現在の藤澤』には藤澤町全体の加入者数245軒とある。
 手許には1937(昭和12)年の鵠沼郵便局電話帳のコピーがあるが、この頃は鵠沼局だけで208軒の加入者があった。
 小字別に加入者軒数を見ると
  • 川袋  = 1
  • 堀南  = 2(髙松病院他)
  • 中井  = 1(藤澤第三尋常小學校)
  • 藤原  = 3
  • 八部  = 1(外務省警華寮)
  • 下鰯  =29(店舗等10、医院、東屋)
  • 上鰯  = 2
  • 上岡  = 2
  • 中岡  =23(湘南学園、店舗等2)
  • 下岡  =75(店舗等10、医師3)
  • 上藤ヶ谷=19
  • 中藤ヶ谷= 6
  • 下藤ヶ谷=38(店舗等3)
  • 辻堂堂面= 1
  • 藤澤駅前= 1(藤澤自動車株式會社)
 国鉄以北が全く見られないのは、恐らく鵠沼郵便局の担当地域が国鉄以南だったからであろう。少なくとも縣立湘南中學校には電話があったに違いないからである。1937(昭和12)年といえば、小田急開通から大分経っているが、本鵠沼駅界隈にはほとんど電話がなかったことになる。鵠沼海岸商店街にしても、すべての店舗に電話が普及していたわけではない。圧倒的に旧別荘地から震災後高級住宅地に変貌した下岡、中岡、下藤ヶ谷、そして商店が多い下鰯に集中している。この傾向は、電話開設当初はさらに顕著だったであろう。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 加藤徳右衛門:『現在の藤澤』(1933)
 
BACK TOP NEXT