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第0206話 武林無想庵と中平文子

東屋での出会い

 放浪の小説家=武林無想庵(1880-1962)が東屋の九番室に滞在して『性慾の触手』を執筆したのは、1920(大正9)年2月末から3月末にかけてのことだった。
 ここで彼は内藤千代子に紹介されて中平文子と知り合う。このことは二人の結婚がゴシップ記事として世間で評判になってから、千代子が『女學世界』に「武林無想庵に中平文子を引き合わせたのは私」と得意気に書いている。千代子が両者と知り合った経緯は詳らかでない。

中平文子

 中平文子(1888-1966)については、既に第0155話で、1913(大正2)年夏、雑誌記者として慈教庵に潜入ルポを試みたことを紹介した。これでも判るように、この時代の女性としては、極めて行動的な女性であった。絵のような美人といわれたが、一生を好き放題生きた女の鑑(かがみ)という評価もある。
 京都府立第一高女(鴨沂高校)卒。京大の医学生と駆け落ち寸前に捕まり、見合い結婚して3人の子をなすが、女優になりたくて24歳で夫と子を捨て離婚する。女優の卵や新聞社の婦人記者をし、この時に鵠沼の慈教庵に潜入ルポを試みるのである。その後年下の好男子を誘惑して2度目の結婚をする。しかし、妬み深い夫が嫌になり上海に逃げ、記者時代の社長や政治家との日々の暴露話を執筆して有名人となる。 上海から帰国して再び鵠沼に赴き、内藤千代子に紹介されて武林無想庵に会うのである。
 無想庵の方がぞっこんになったらしい。一説では、文子の方はただパリに行きたいがために偽装結婚を承諾する。それでも、島崎藤村を仲人にして帝国ホテルで挙式。『藤沢の文学』では東屋で挙式となっているが、東屋は結婚のきっかけを与えた場所に過ぎない。パリでは元愛人に狙撃されたが、軽傷で済んだ。娘イヴォンヌが生まれるや、溺愛してかわいい子供服づくりに熱中する。金がなくなって日本に帰国して、フランス帰りを資生堂に売り込み子供服の主任となり、そのうち子供服に倦きて帽子を次々につくった。以後、あまり鵠沼を巡る話題でないので、この辺で止める。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
 
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