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この年、それを象徴するような出来事が立て続けに起こる。そのいくつかを紹介しよう。 山口寅之輔、旧大給邸跡地を入手鵠沼海岸別荘地開発の発起人=大給子爵家の鵠沼別荘は、現在の《湘南学園》南方の鵠沼松が岡四丁目にあった。大給家がここを引き払ったのがいつかは詳らかでないが、次に大給別荘跡地を入手したのは山口寅之輔で、1920(大正9)年1月のことであった。山口寅之輔とは、髙瀨三郎の弟らしく、髙瀨笑子氏の著書ではしばしば「山口の大叔父」として登場する。髙瀨彌一の叔父ということになるが、彌一と歳はいくつも離れていなかったらしい。関東大震災前後から、彼は鵠沼の土地ブローカーとして活躍する。ことに、現在の江ノ電バス高根線の「上岡」バス停から江ノ電鵠沼駅に向かう道路は、「山口通り」と呼ぶ場合がある。この道路沿いの土地を広く入手し、自邸を構え、宅地開発を行ったのは大震災以後のことである。 大給別荘の跡地の大部分を山口寅之輔から購入したのは、北海道開発に名を残す宮崎寛愛(ひろちか)である。 鵠沼海岸の地価高騰1920(大正9)年3月、《橫濱貿易新報》(神奈川新聞の前身)に「鵠沼海岸の地価高騰」という見出しの記事が掲載された。この記事の内容については未調査である。調べがつき次第、この部分に追記することにしたい。伊東將行の死1920(大正9)年7月29日、鵠沼海岸別荘地開発の大立て者=伊東將行が脳溢血で没した。享年75だった。慈教庵で葬儀が行われ、ぬゐ夫人の手で巨大な墓碑も建てられたが、將行は日蓮宗信徒であり、正式の墓所は青山墓地にあるという。この墓標は、本眞寺に移されて現存する。 実はこの時、伊東將行の生前から將行の顕彰碑を建てようということで準備が進められていたが、碑の完成を待たずに將行が没したため、碑文も書き換えられた。この碑については別項を立てる。 日本最古の組立家屋同じ7月、鵠沼字下岡6672(鵠沼海岸1-9)に米国から輸入した日本最古の組立家屋、内藤邸建設が完工した。これについても別項を立てる予定である。髙瀨彌一、川袋邸完成。移転1920(大正9)年9月10日、髙瀨彌一は川袋2370-1に数寄屋造りの瀟洒な邸宅を建て、「鵠沼御殿」と呼ばれた豪壮な藤ヶ谷の邸宅から移転した。 | ||||||
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