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第0199話 自動車黎明期

路線バス

 第0195話で「日本でも1912(大正元)年にはタクシーの営業が始まる。」と書いたが、乗合自動車(バス)の場合はこれより早く、諸説があるがほぼ20世紀初頭、すなわち、江之島電氣鐵道開通の頃らしい。
 鵠沼にバスが走ったのはいつからかというと、これも2説ある。
 一つは藤沢市文書館の『江の島桟橋物語』によるもので、「1918(大正 7)年7月1日 江ノ島自動車、藤沢―片瀬乗合バスを開業」というものである。
 もう一つは藤沢市史編纂委員会の『藤沢市史年表』によるもので、「1919(大正 8)年7月1日 藤沢―片瀬間の乗合自動車(江之島自動車)、運転開始」というものである。
 この二つの間にはちょうど1年のずれがあるが、両者とも期日は同じ7月1日で、記述内容はほぼ同一だから、同じことを述べたものだろう。営業会社名は《江ノ島自動車》か《江之島自動車》かという問題が残る。
 これについては、神奈川中央交通の会社沿革に「1931年には、江之島自動車、片瀬自動車商会、鵠沼自動車を合併して藤沢自動車が設立された。」とあるから、《江之島自動車》が正しいと見たい。
 いずれにせよ、大正中期に《江之島自動車》が藤沢―片瀬間に乗合自動車の運行を開始したのが、藤澤町における最初のバス路線だった。
 次に問題になるのは、このバス路線はどこを通っていたかである。
 現在の国道467号、昔の《片瀬県道》については、1920(大正 9)年4月1日 藤澤停車塲―鎌倉郡川口村江ノ島間の道路、縣道藤澤停車塲江ノ島線に認定[神奈川縣告示第百二十二號] とあるが、前話で一部分を紹介した翌年測図の1:25,000地形図には描かれていない。
 従って、このバス路線は旧江之島道を通っていたとしか考えられない。うち、鵠沼地区を通っていたのは、現在の《ファミリー通り》~《石上通り》の部分のみである。
 当然、縣道藤澤停車塲江ノ島線開通後は、ルート変更がなされただろう。

タクシー

 さて、上記神奈川中央交通の会社沿革にある《江之島自動車》、《片瀬自動車商会》、《鵠沼自動車》はタクシー営業を主としていたと思われる。
 鵠沼を語る会では、2000(平成12)年に鵠沼海岸商店街について詳細な調査を行ったが、大正時代における鵠沼海岸商店街に営業所を持っていたのは《江之島自動車》で、営業所は旅館《中屋》の隣にあった。
  《鵠沼自動車》は《沼田自動車》ともいったようで、《鵠沼乗合自動車》という記録もある。大震災後になって現在のマリンロードから鵠沼公民館に曲がる東角あたりでタクシー営業をしていた。
 岸田劉生の『劉生繪日記』によれば、1922(大正11)年に劉生の住む《松本別荘》の前の道(後に湘南学園ができたことで《学園通り》の別名が生まれた)が、自動車を通す目的で拡幅工事が行われたことが記されており、外出の機会が多かった劉生は、悪天の時などにしばしば自動車(タクシー)を利用している。
 また、大震災後の話だが、1926(大正15)年に鵠沼に住んだ芥川龍之介の晩年の作品『歯車』の冒頭部分に、
 「僕は或知り人の結婚披露式につらなる為に鞄を一つ下げたまま、東海道の或停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。自動車の走る道の両がはは大抵松ばかり茂つてゐた。上り列車に間に合ふかどうかは可也かなり怪しいのに違ひなかつた。自動車には丁度僕の外に或理髪店の主人も乗り合せてゐた。」とある。
 「自動車を飛ばした」とあるからには、路線バスではなく、タクシーに違いないが、「乗り合せてゐた」人物が登場するのは、乗合タクシーであり、当時はこれが普通だったのだろう。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 藤沢市文書館:『江の島桟橋物語』
  • 藤沢市:『藤沢市史年表』
  • 「特集 鵠沼海岸商店街100年の歴史」『鵠沼』第81号(2000)
 
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