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第0198話 肥上道と白い橋

鵠沼の白い橋

 1918(大正 7)年の第5回二科展で、硲 伊之助(1895-1977)は『鵠沼の白い橋』『鵠沼風景』など26点を出品し、再度二科賞を受賞している。
 「鵠沼の白い橋」については、他の草土社の画家も題材にしており、鵠沼では「絵になる」風景だったようだ。
 この白い橋はどこにあったのか。
 岡田哲明氏は、『鵠沼』第99号に「「鵠沼の白い橋」鵠沼を画題にした画家たち」を寄稿し、この問題に考証を加えている。
 それによれば、硲家の別荘の前にあった《鯉取橋》から、上流の《泉橋》を描いたものだろうということである。
 《泉橋》というのは、鵠沼公民館の裏門のある道、すなわち小田急鵠沼海岸駅東側の踏切から海に向かう道路が、堀川あるいは古川と呼ばれていた堀川の水田地帯からの排水路に架かっていた橋である。そんな流れだから、決して広い流れではない。ごく小さな橋である。
 この流れは1964(昭和39)年に暗渠となり、現在は大型車がすれ違えるほどの道路になっている。
 しかし、この流路は江戸時代までは引地川の本流だった可能性が高い。古図によれば、下の図の二点鎖線の所を流れていた片瀬川(境川)本流に直接流入していた。

肥上道

 この道路は、実は鵠沼海岸ではかなり古くからある道路で、1892(明治15)年測図の1:20,000迅速図にも描かれている。ここは後に鵠沼村の村有地と海岸の官有地の境界線になったといわれる。
 辻堂村の農民が、片瀬や江の島の旅館街の屎尿汲み取りの権利を得て、それを下肥として辻堂村に運ぶルートを確保しようと鵠沼村に交渉した際、鵠沼村側は村内通過を許さず、官有地との境界線沿いの道路を通るようにしたため、この道を《肥上道(こえあげみち)》と呼ぶようになったと伝えられる。
 1964(昭和39)年の堀川暗渠化により、道幅が拡がったため、大型車が通れるようになった。
 1968(昭和48)年には集合住宅《鵠沼ニューマンション》が、さらに1970(昭和45)年には《鵠沼スカイマンション》が肥上道沿いに建てられた。この道幅と集合住宅建設との関係については、後に別項を立てよう。 

E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 岡田哲明:「「鵠沼の白い橋」鵠沼を画題にした画家たち」『鵠沼』第99号(2009)
 
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