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プロフィールTheodor Hermann STERNBERG(シュテルンベルク,テオドール.ヘルマン 1878(明治11)年1月5日-1950(昭和25)年4月17日)はドイツ・ベルリン出身(ユダヤ系)の法学博士 東京帝大教師スイス・ローザンヌ大学の講師を経て、1913(大正2)年8月、東京帝國大學法科大學の「独逸法教師」として採用される。以降、1918(大正7)年8月までの5年間その職にあり、田中耕太郎や川島武宜など多くの法曹人を育てた。その後も日本に住み、1921(大正11)年から1945(昭和20)年までは慶応義塾、中央、法政、日本、明治各大学で非常勤講師としてドイツ民法・刑法、法哲学・法理論、法社会学などを教えた。 鵠沼とのゆかり鵠沼に来たのは、帝國大學を退職した1918(大正7)年以降のことと思われる。当初は貸別荘「松本陽松園」(通称松本別荘。鵠沼松が岡4-7)の奥にあった松本家の隠居宅に一時住み、後に鵠沼松が岡3-8近くに移った。当時の松本陽松園には岸田劉生が住み、交流の様子が『鵠沼日記』に出てくる。商店主たちからは「ステルンさん」と親しまれた。一方、口笛や犬の吠え声を嫌い、癇癪を起こしたため、鵠沼の悪童たちは口笛でからかったという。戦争末期と戦後は辻堂東海岸1丁目に移り、髙瀨笑子らと交流している。晩年は職もなく、生活保護を受けるほど悲惨なものだったという。腎不全により東京・中落合の聖母病院で他界した。 シュテルンベルクの没後、髙瀨笑子は朝日新聞の声欄に『ス博士の死』という投書をした。その投書は同年4月25日付朝刊に載っている。 「(博士は)教育界の功労者であったが、その晩年はみじめで、藤沢市の生活保護と医療保護をうけ、かろうじて命をつないでいる有り様だった」という書き出しで、日本にくる外国人教師の、とくに晩年の処遇改善について訴えている。 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
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