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第0196話 髙瀨笑子誕生

髙瀨家の長女=笑子

 1917(大正 6)年9月1日、鵠沼中藤ヶ谷の髙瀨彌一・つる夫妻に第一子=長女の髙瀨笑子が誕生した。
 以来、彼女は藤澤尋常小学校、神奈川縣立横濱第一高等女學校(現県立横浜平沼高校)を経て津田塾に進んだが、母の死により津田塾を一旦退学し、幼い弟妹の面倒を見ると共に、業績悪化で苦しんでいた父=髙瀨彌一を支えることになった。
 戦後、津田塾に復学し、さらに東京大学文科に初の女子学生として進学し、ガリオア(翌年よりフルブライトと改称)資金を得て留学生として米国ミネソタ大学に入学した。卒業後はミネソタ大学で東洋学を講じ、一方、歌人として数冊の歌集を刊行した。
 現在もミネソタ大学名誉教授としてミネアポリスにご健在と聞く。
 ここでは略年譜を掲げるにとどめるが、今後折に触れて話題に登場するであろう。


髙瀨笑子略年譜
    
西暦 和暦 記                        事
1917 大正 6 9 1 髙瀨笑子、鵠沼中藤ヶ谷にて実業家=髙瀨彌一の長女として誕生
1923 大正12 4   藤澤尋常小学校に入学
1923 大正12 9 1 川袋高瀬邸全潰。長女=笑子、下敷きとなるも無事。二女=美枝子死亡
1930 昭和 5 4   神奈川縣立横濱第一高等女學校(現県立横浜平沼高校)に進学
1935 昭和10 4   横濱第一高等女學校を卒業。津田塾に進学
1936 昭和11 3   母の死により津田塾を退学
1936 昭和11     ~1977、歌人=水町京子に師事
1937 昭和12     国際文化振興会(KBS)にタイピストとして就職
1945 昭和20 8   敗戦によりKBS解散。職を失う
1945 昭和20 10   津田塾に復学
1949 昭和24 3   津田塾を卒業、東京大学文科に進学(東大初の女子学生)
1951 昭和26     ガリオア(翌年よりフルブライトと改称)留学生として米国ミネソタ大学に入学
1952 昭和27     松本氏(Kaye K. Matsumoto=日系二世)と結婚→松本笑子 筆名は高瀬笑子
1961 昭和36     『くげぬま』(新星書房)を刊行
1971 昭和46     『離愁―歌集 (1971年) (とほつびと叢書)』(短歌新聞社)を刊行
1982 昭和57 3   『水町京子―人と作品』(九藝出版)を刊行
1983 昭和58 3   『秋風秋雨―歌集 (遠つびと叢書〈第40篇〉)』(短歌新聞社)を刊行
1984 昭和59 1   『春日遅々―歌集 (地中海叢書〈第212篇〉)』(ながらみ書房)を刊行
1989 平成 1 9   『高瀬笑子歌集 (日本現代歌人叢書)』(芸風書院)を刊行
1990 平成 2 8   『湖光る窓―歌集 (遠つびと叢書)』(短歌新聞社)を刊行
1990 平成 2 10   『冬を越す―歌集 (遠つびと叢書)』(短歌新聞社)を刊行
1998 平成10 6   『鵠沼断想』(武蔵野書房)を刊行
2002 平成14 10   『ゆく河の流れ―ふたつの国に生きて』(武蔵野書房)を刊行
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 髙瀨笑子:『鵠沼断想』武蔵野書房(1998)
  • 髙瀨笑子:『ゆく河の流れ―ふたつの国に生きて』武蔵野書房(2002)
 
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