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インフラ整備拠点の移動日露戦争が終わった頃から、生活に直結するインフラストラクチャーの整備がようやく本格化する。その中でもいち早く取り組まれたのが郵便事業だった。 鵠沼村では1906(明治39)年に引地に郵便鉄柱箱(郵便ポスト)が設置された。 その翌年、旅館東屋に付随して「鵠沼郵便局」が開設された。恐らくこの当時は鵠沼村の居住空間としては最南部に、医院に続いて郵便局が設置されたのである。かくして旅館東屋は鵠沼村のインフラストラクチャーの拠点となっていった。 この段階では、鵠沼村の人口分布の重心は「本村」にあり、その中心であった小字中井地区に明治初期に村役場と小学校が立地していたが、明治末期には医院と郵便局は南端に置かれたことになる。 医院の場合は、第0160話で述べたように、リゾート旅館が転地療養のための滞在に利用されていた事情があったが、郵便の利用もリゾート旅館の長期滞在者が多く、半農半漁村の住民は利用頻度が少なかっただろうし、必要とあれば旧藤沢宿にあった藤沢郵便局が近かったためもあろう。 鵠沼地区では、1940(昭和15)年に藤沢橘通郵便局が開局するが、江ノ電鵠沼駅近くや小田急本鵠沼駅近く、藤沢駅南口近くに郵便局ができるのは戦後になってからである。 鵠沼郵便局は、以後、局舎の位置を3回換え、名称も鵠沼海岸郵便局と改称して、現在のものは4番目の位置ということになる。こんなに場所を変更した郵便局も珍しい。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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