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第0160話 鵠沼海浜医院

福田良平

 江之島電氣鐵道の開通により、旅館東屋の客も飛躍的に増加したに違いない。
 旅館東屋の客は、夏場は滞在型の海水浴客だったが、オフシーズンの客は転地療養目的の長期療養者、ことに当時「国民病」と恐れられていた肺結核の療養には、清浄な空気と静かな環境が良いとされていたからである。
 ことに湘南海岸は、日本初の海濱院(鎌倉)を初め、本格的なサナトリウムが次々に建てられた。主なものを列挙すると
  • 海濱院(鎌倉・由比ガ浜) 1887年
  • 杏雲堂病院(平塚・袖ヶ浜) 1896年
  • 南湖院(茅ヶ崎・南湖) 1899年
  • 恵風園療養所(鎌倉・七里ガ浜) 1899年
  • 鈴木療養所(鎌倉・七里ガ浜) 1910年
  • 聖テレジア結核療養所(鎌倉・七里ガ浜) 1929年
 これをご覧になると、現藤沢市域には主な療養所が見当たらないことに気付かれるだろう。小規模な医院は、昭和初期に辻堂と片瀬(当時は鎌倉郡)に開かれたらしい。鵠沼にも開設計画があったらしいが、計画段階で反対運動が起こり、実現に至らなかったという。
 第0149話で紹介した齋藤緑雨も、結核療養のため東屋に滞在したのである。その他、療養のために東屋に滞在したと判明している人物に、大杉栄、北村初雄、芥川龍之介、羽仁説子がいる。
 そこで伊東將行は、埼玉県吹上出身で、日露戦争の軍医として活躍した福田良平を呼び寄せ、東屋の隣に《鵠沼海浜医院》を開設させた。鵠沼村で初めての近代的医療施設である。東屋滞在者ばかりでなく、一般村民にとっても重要な施設であった。
 福田は《鵠沼海浜医院》の医院長として、大活躍し、東屋の女将=多嘉・ゑいらの妹=長谷川蝶と結婚した。彼らには子が生まれなかったので、姪の光代を養子にする。
 後に福田は藤沢町会議員になり、 藤沢の乗合自動車会社を統合した《藤沢自動車㈱》の社長に就任している。

鵠沼海浜医院

 藤沢市医師会:『藤沢医史』によれば
 「福田良平は明治三十九年、鵠沼がまだ藤沢町ではなく鵠沼村といった頃、初めて鵠沼六六四八番地に鵠沼海浜病院を開業している。鵠沼に住む殆んどの患者が門前列をなして診療を乞うたと伝えられ、その盛業ぶりが偲ばれる。
 福田良平は、明治十年八月の生れで現在の日本医大、東京医大の前身とも云える済生学舎に学び、明治三十三年の医術開業試験に合格して医師の資格を得、その後、陸軍軍医となり、明治三十七、八年の日露戦争の時は、陸軍三等軍医正として東京陸軍戸山病院に勤務した。明治三十九年東京から鵠沼に移り開業した。当時の軍医に対する信頼は極めて絶大なものがあり、福田の学識、手腕と相いまって、伝説的盛業をもたらしたものと考えられる。内科を専門として居たが、小児科、外科、産婦人科等もこなしたようである。

 大正十一年八月、脳溢血で倒れたが、幸い、手当も早く、軽症でもあり、一年ほどの療養にて、著しく回復し、再び診療に当った。大正十二年の大震災に会い、家屋は倒壊し、鵠沼一帯も広範囲の被害を受け、大惨状を呈したが、翌大正十三年三月家を再建し、自宅での宅診のみを始めたが、それでも当時で約九十人位の患者が来診したといわれていた。
 昭和十五年十月末、肺壊痘を発病し、療養の甲斐なく、十一月三十日死去した。」とある。

転地療養施設としての「東屋」年表
    
西暦 和暦 記                        事
1900 明治33 10 23 ~1901/4/12。小説家=齋藤緑雨(1867-1904)、東屋に滞在。『日記』を残す
1906 明治39     埼玉県吹上出身の医師=福田良平、伊東将行の招聘で東屋近くに鵠沼海浜医院を開く
1909 明治42 3   医師=福田良平、長谷川ゑいの妹=蝶と結婚
1909 明治42   今井達夫(5歳)、父親の療養のため、両親と共に鵠沼「東屋旅館」の貸別荘で過ごす
1921 大正10 9 思想家=大杉 栄(1885-1923)、東屋に滞在して『自叙伝』を書き始める
1922 大正11 10 30 ~11.3、大杉 栄、東屋に投宿
1922 大正11 12 20 北村初雄、東屋にて病没
1926 大正15 2 22 ~5/25、芥川龍之介が妻と三男也寸志をともなって初めて東屋に滞在。『追憶』を発表し始める
1926 大正15 6 8 ~6/22、芥川龍之介、東屋に滞在
1926 昭和元 12   ~1927/1、婦人運動家(羽仁五郎の妻,羽仁もと子の子)=羽仁説子(1903-1987)、東屋で転地療養
1927 昭和 2 3 28 ~4/2、芥川龍之介、文子と東屋に滞在
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 藤沢市医師会:『藤沢医史』(1984)
 
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