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第0141話 鵠沼文化人百選 その002 長谷川路可

杉村龍三から長谷川龍三へ

 長谷川路可は、日本画家ということになっているが、それでは説明できない極めて多角的な活動で知られる国際的な美術家である。
 2003(平成15)年、長谷川路可のご遺族から藤沢市に作品22点の寄贈があり、完成したばかりの鵠沼市民センター新館、鵠沼郷土資料展示室で小品展が開かれた。
 翌年春には市民ギャラリーで寄贈された全作品が披露され、それに合わせて鵠沼郷土資料展示室では「鵠沼が生んだ世界的画家・写真と資料による長谷川路可展」を開催した。単に寄贈作品の展示だけでは長谷川路可の多角性を紹介しきれないと思ったからである。
 前項にも書いたように、長谷川路可=本名:長谷川龍三は東屋初代女将=長谷川ゑいの姉の子、すなわち甥である。ゑいの姉=たか(1866-1938)は、東京の芝で糸組み物を商っていた杉村清吉(1855-1916)と結婚し、間に一人息子の龍三が誕生するのは、妹のゑいが鵠沼に移った1897(明治30)の7月9日のことであった。この龍三が日本画家の長谷川路可となるのである。路可については別項を立てる。龍三が小学校3年生のとき両親は離婚し、龍三は母=たかが引き取ることになったため、長谷川姓を名乗り、長谷川龍三となった。長谷川家唯一の男性である繁蔵とその妻=タケとの間に、一人息子の欽一が生まれたが、龍三とは三つ違いの欽一は、幼少時に父が他界し、母もその前後に長谷川家を去っている。伊東將行が招聘した埼玉県吹上出身の医師=福田良平を院長に《鵠沼海濱病院》が東屋に隣接して開設され、福田良平は長谷川家の四女=蝶と結婚した。二人の間には子が生まれなかったので、姪の光代を養子にする。龍三と欽一、光代の二人のいとこ、時に光代の姉弟をも含めて東屋は格好の遊び場であった。年長の龍三は、彼らの面倒をよく見たので慕われていた。

東屋と長谷川龍三

 1910(明治43)年、龍三は暁星中學校に進学した。寄宿舎生活は当然続けられたが、帰省したときなど、東屋の滞在客とも交流が生まれた。「谷崎先生が長い間あづまやの離れ座敷に滞在して小説を書いていた。わんぱく盛りの私は、よくのぞきにいってお菓子を貰った。」とか「岸田劉生先生が来ておられるころ、写生に出かける時、ついていって叱られたことがあった。それでも強情に仕事ぶりを見ていた。帰りには絵の具箱を持たされて得々としたものである。」などの思い出を記している。(『随筆サンケイ』昭和39年3月号)
 長谷川路可の美術家としての活動については、別項を設ける予定である。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
 
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