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大給子爵家の謎我が国初の別荘分譲地である鵠沼海岸別荘地開発について調べてみると、大給(おぎゅう)子爵家が所有した25万坪ともいわれる広大な砂原からそれは出発したと出てくる。この土地がなかったら、鵠沼海岸別荘地はなかった。大給家については謎に包まれていて、幾つかの点について明快な解答が得られていない。 先ず、大給家という、それまで鵠沼にはほとんど関わりのなかった旧大名が、どういう理由で広大な旧鉄炮場の砂原を25万坪も入手したのか。 次に、それは有償だったのか、無償だったのか。有償だったとしたら、いくらぐらいだったのか。無償だとしたら、いかなる経緯によるものか。 また、入手した時点はいつ頃か。 さらに、大給家お抱え大工の棟梁木下利吉・利次父子はともかく、伊東将行なる人物がどのような経緯で大給家所有地の別荘地分譲の中心人物になったのか。 そして、その伊東将行の顕彰碑ともいえる「鵠沼海岸別荘地開發記念碑」が、大給家ゆかりの賀来(かく)神社境内に建てられているにもかかわらず、碑文に大給家について全く記されていないのは何故か。 などの諸点である。 私は大政奉還後、旧幕府領の処分を考えた明治新政府が、版籍奉還した旧大名に下げ渡したのではないかと睨んでいる。 大給松平家大給家は江戸時代には松平姓を名乗っており、大分県大分市の府内城の城主であった。幕末の頃、寺社奉行から若年寄に昇格したが、1868(慶応4)年2月6日に府内藩主松平近説(ちかよし)は、願って若年寄を免ぜられ、京都へ上り、「大給」に復する旨を京都の弁事御伝達所に届け出ている。松平家は室町時代には三河の豪族であったが、一族繁栄のために分家に支城を管理させ、宗家は、家康の時代に徳川姓を名乗ることになる。 この分家は18系統あったといわれる。経歴の明確なものが14系統あって、これを十四松平、諸書によって異動のある松平家4家を含めたものを十八松平という。 すなわち松平家とは徳川将軍家の親類筋ということになるが、実は論功行賞的に松平姓を与えた場合が他にも多く、いわば十八松平は“由緒正しき松平”ということになろう。原則的に譜代大名になるが、旗本だったりする家もある。 大給(おぎゅう)家とは大給松平家のことで、松平宗家の4代目の親忠の次男の乗元を祖とする。乗元が東加茂郡の大給(荻生とも。現愛知県豊田市)地方の主だったため、この地名を採った。早くから家康に仕えて信任が篤かった。以後も本家、一族で大名や高級旗本になった者も多い。歴代の老中も5人が務めている。幕末まで続いた譜代大名は次の4系統で、版籍奉還後いずれも子爵に列した。
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