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第0128話 大給子爵

大給子爵家の謎

 我が国初の別荘分譲地である鵠沼海岸別荘地開発について調べてみると、大給(おぎゅう)子爵家が所有した25万坪ともいわれる広大な砂原からそれは出発したと出てくる。この土地がなかったら、鵠沼海岸別荘地はなかった。
 大給家については謎に包まれていて、幾つかの点について明快な解答が得られていない。
 先ず、大給家という、それまで鵠沼にはほとんど関わりのなかった旧大名が、どういう理由で広大な旧鉄炮場の砂原を25万坪も入手したのか。
 次に、それは有償だったのか、無償だったのか。有償だったとしたら、いくらぐらいだったのか。無償だとしたら、いかなる経緯によるものか。
 また、入手した時点はいつ頃か。
 さらに、大給家お抱え大工の棟梁木下利吉・利次父子はともかく、伊東将行なる人物がどのような経緯で大給家所有地の別荘地分譲の中心人物になったのか。
 そして、その伊東将行の顕彰碑ともいえる「鵠沼海岸別荘地開發記念碑」が、大給家ゆかりの賀来(かく)神社境内に建てられているにもかかわらず、碑文に大給家について全く記されていないのは何故か。
 などの諸点である。

 私は大政奉還後、旧幕府領の処分を考えた明治新政府が、版籍奉還した旧大名に下げ渡したのではないかと睨んでいる。

大給松平家

 大給家は江戸時代には松平姓を名乗っており、大分県大分市の府内城の城主であった。幕末の頃、寺社奉行から若年寄に昇格したが、1868(慶応4)年2月6日に府内藩主松平近説(ちかよし)は、願って若年寄を免ぜられ、京都へ上り、「大給」に復する旨を京都の弁事御伝達所に届け出ている。
 松平家は室町時代には三河の豪族であったが、一族繁栄のために分家に支城を管理させ、宗家は、家康の時代に徳川姓を名乗ることになる。
 この分家は18系統あったといわれる。経歴の明確なものが14系統あって、これを十四松平、諸書によって異動のある松平家4家を含めたものを十八松平という。
 すなわち松平家とは徳川将軍家の親類筋ということになるが、実は論功行賞的に松平姓を与えた場合が他にも多く、いわば十八松平は“由緒正しき松平”ということになろう。原則的に譜代大名になるが、旗本だったりする家もある。
 大給(おぎゅう)家とは大給松平家のことで、松平宗家の4代目の親忠の次男の乗元を祖とする。乗元が東加茂郡の大給(荻生とも。現愛知県豊田市)地方の主だったため、この地名を採った。早くから家康に仕えて信任が篤かった。以後も本家、一族で大名や高級旗本になった者も多い。歴代の老中も5人が務めている。幕末まで続いた譜代大名は次の4系統で、版籍奉還後いずれも子爵に列した。
  • 西尾大給松平家 60,000石 三河国大給→出羽国山形藩→三河国西尾藩
  • 岩村大給松平家 30,000石 美濃国岩村藩
  • 龍岡大給松平家 16,000石 三河・信濃国奥殿藩→信濃国田野口(龍岡)藩
  • 府内大給松平家 21,200石 三河国西尾藩→丹波国亀山藩→豊後国府内藩
 府内藩を最初に統治したのは竹中家で、二代続き、その後を日根野家の吉明が統治した。彼には子がなかったので、幕府管理の後、松平(大給)分家の成重(なりしげ)の子忠昭(ただあき)が1658(万治元)年に豊後高松より大分県大分市の豊後府内城に入り、以来幕末までを②近陳(ちかのぶ)・③近禎(ちかよし)・④近貞(ちかさだ)・⑤近形(ちかのり)・⑥近儔(ちかとも)・⑦近義(ちかよし)・⑧近訓(ちかくに)・⑨近信(ちかのぶ)・⑩近説(ちかよし)と、松平(大給)家が10代継ぐことになる。竹中・日根野両家はいずれも外様(とざま)大名で20,000石だったが、松平(大給)家は譜代大名で22,200石だった。もっとも、二代近陳(ちかのぶ)の時に弟に1,000石を分与し、以来21,200石となった。

大給家鵠沼関係年表
    
西暦 和暦 記                        事
1658 万治 1     松平(大給)忠昭、豊後高松より22,000石で豊後府内藩に入封
1687 貞享 4     豊後府内藩、江戸上屋敷を現在の神田淡路町1丁目に構える
1854 安政 1     大給近道誕生
1867 慶応 3     大給家10代=松平近説(チカヨシ、桑名藩主松平貞永の七男→養子)、寺社奉行から若年寄に昇格
1868 慶応 4 2 6 松平近説、若年寄を免ぜられ、京都へ上り、大給に復する旨を京都の弁事御伝達所に届け出る
1871 明治 4 7 14 府内藩は府内県となり大給近説は藩知事を免ぜられて東京に移り、子爵として華族に列す
1872 明治 5     大給家、神田淡路町の本邸邸地を開放
1879 明治12     大給近孝誕生
1886 明治19     大給近説、没
1890 明治23     この頃、大給子爵が鵠沼の20万余坪の土地を購入
1892 明治25     伊東将行・木下利吉・米三郎、大給子爵所有の約25万坪を別荘地として開発を目論む
1897 明治30     ~1902頃、大給子爵、木下米三郎に測量・区割りさせて大地図作成
1902 明治35     大給近道、没
1905 明治38 8   伊東将行が大給家と賀来神社の鵠沼遷宮を協議
1906 明治39 10 9 大給近孝・伊東将行、賀来神社を鵠沼村下藤が谷に遷座し、寄付登記
1910 明治43     旧松山藩主=久松定謨伯爵家、大給子爵の土地数千坪購入
1914 大正 3 4   大給子爵家、東屋付近の土地の貸与・分譲を実施、別荘地としての鵠沼の発展をすすめる
1914 大正 3 8 15 大給子爵、鵠沼から鎌倉の黒田清輝を訪ねる
1920 大正 9 2   山口寅之輔、現湘南学園海側にあたる旧大給邸跡地を入手
1958 昭和33     大給近孝、没
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 『藤沢市史』第六巻(1997)
  • 牧田知子:「近代住空間の形成 ―鵠沼を例とする別荘型住空間― 」『鵠沼』第73号(1996)
  • 有田裕一:「鵠沼松が岡の開発と大給家について」『鵠沼』第88号(2004)
  • 渡部 瞭:「大給子爵家こぼればなし」『鵠沼』第97号(2007)
 
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