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第0127話 鵠沼村一村で独立

鵠沼村と明治村に分裂

 1889(明治22)年4月1日、「市制町村制」が施行され、、鵠沼村はそれまでの羽鳥、大庭、稲荷、辻堂村との連合組織から分れ1村で独立、役場を字中井におくと高座郡史にある。鵠沼村以外の4村は合併して明治村が誕生した。この時同時に藤沢大坂町(前年、藤沢駅大久保町と藤沢駅坂戸町が合併してできた町)が1町で独立し、北部では円行村、亀井野村、下土棚村、西俣野村、今田村および石川村が合併し六会村が成立している。こうした合併の流れの中でなぜ鵠沼村だけが合併せずに1村で独立という形態をとったのかという理由について述べた記録に接したことはない。いずれにせよ、1908(明治41)年に藤沢大坂町・明治村と合併して藤沢町が誕生するまで20年近くの間、鵠沼村は1村で独立していたのである。
 鵠沼村役場は具体的に中井のどこに置かれたかについては、未調査である。字中井というのは、現在の鵠沼小学校を中心とする一帯で、宿庭・清水・苅田の集落を含む。普門寺があり、境内には「第87番小学鵠沼学校」の校舎が置かれていた。域内には旧家の大關根・大齋藤の両家の屋敷が構えられている。その中間の現在鵠沼小学校の校地になっているところは、当時は水田だった。六会村の村役場は、六会小学校に隣接していたというから、普門寺境内の鵠沼学校が役場を兼ねていたとも考えられる。
 1889(明治22)年8月1日には鵠沼村の村長=関根庄左衛門、助役=熄シ祐重、収入役=山口房次郎が就任し、新たなスタートが切られた。 

明治期後半の鵠沼村

 鵠沼村一村独立時代、日本は「富国強兵」策のもと日清・日露の対外戦争を戦い、一方で近代化を強力に推し進めていた時代だった。
 鵠沼村でも石上に釜数=200、藤沢地域では最大の工場である盛進社若尾製糸場が始業したり、海岸部では海水浴場を中心とする海浜リゾートとしての発展が見られたが、日本最初の大型別荘分譲地開発は緒に就いた段階で、本格的な別荘地が形成されるのは江之島電氣鐵道開通後である。
 第0111話で見たように、この時代の鵠沼村の戸数は、海岸部に旅館などが開業したものの400戸足らず。人口もおよそ2,800人前後であった。江戸時代からの半農半漁村の光景はさほど大きな変化はなく、村落共同体の結束も堅く続いていたであろう。    

一村独立時代の鵠沼村年表
    
西暦 和暦 記                        事
1889 明治22 4 1 市制町村制施行、鵠沼村は連合組織から分れ1村で独立、役場を字中井におく
1889 明治22 8 1 鵠沼村、村長=關根庄左衛門、助役=熄シ祐重、収入役=山口房次郎
1889 明治22     この頃宮内省、鵠沼海岸を御用邸の侯補地とする
1889 明治22     伊東將行、中野武営・中島行孝・伊藤幹一らと鵠沼海岸別荘地の開発に取り組む
1890 明治23 8 清水、人形山車(神武天皇)を新調。技工師林大工
1890 明治23 10   鵠沼村の役場費=317円37銭。教育費=217円05銭
1890 明治23     井上大次郎、鵠沼海岸2丁目に「對江館鵠沼(待潮館とも)」開業
1890 明治23     この頃、大給子爵が鵠沼の20万余坪の土地を購入
1891 明治24 8 原、人形山車(日本武尊)を新調。技工師加藤徳太郎
1892 明治25 3 19 鵠沼学校、尋常鵠沼小学校と改称
1892 明治25 8 宿庭、人形山車(源 義経)を新調。技工師林大工
1892 明治25 11   伊東將行、行遊客の誘致策として貸別荘風の東屋建設
1892 明治25     吉村鉄之助、鵠沼館の北東に子女の療養のため別荘を建てる
1892 明治25     伊東將行・木下利吉・米三郎、大給子爵所有の約25万坪を別荘地として開発を目論む
1892 明治25     『全國鐵道名所案内』に鵠沼海水浴場を紹介。「待潮館、鵠沼館二軒の旅亭あり」と記す
1894 明治27 6 20 関東南部を中心強震。震度6。M=7。安政江戸地震以来の烈震
1894 明治27     御用邸は土方伯爵の推奨により葉山に決定
1894 明治27     この年の鵠沼村、漁業戸数=150戸・250人、水産製造戸数=75戸・120人
1895 明治28 1 15 東京予防病院長=松島玄景、日清戦争の送還患者転地療養施設として鵠沼館を選定
1895 明治28 4 16 傷病兵慰安のため鵠沼館前に数十本の烟花を打揚げ且撃剣会を催す
1895 明治28 5   尋常鵠沼小学校、2教室増築、運動場拡張
1895 明治28 6   若尾幾造、鵠沼村石上に盛進社若尾製糸場始業(釜数=200、藤沢地域では最大の工場)
1895 明治28 8   『風俗画報』第97号に、神奈川県の海水浴場として鵠沼などが紹介される
1895 明治28 9   尋常鵠沼小学校、尋常補習科開設
1896 明治29     鵠沼村の役場費279円68銭、教育費498円20銭
1896 明治29     江之島電氣鐵道 電気鉄道敷設許可申請
1897 明治30 2   熄シ良夫、鵠沼村村長に就任
1897 明治30 8 仲東、人形山車(浦島太郎)を新調。技工師加藤徳太郎、彫刻師後藤軒茂正
1897 明治30 9 9 暴風雨。暴風雨とうんかにより収穫2割減
1897 明治30 9   万福寺本堂、消失
1897 明治30 12 20 江之島電氣鐵道に電気鉄道敷設特許状、命令書交付
1897 明治30     鵠沼村、戸数=330戸、人口=2,540人、男1,285、女1,255
1897 明治30     旅館東屋新築。初代女将=長谷川ゑい、この頃経営に参加か
1897 明治30     〜1902頃、大給子爵、木下米三郎に測量・区割りさせて大地図作成
1897 明治30     高座郡農会結成
1898 明治31 8 20 『風俗画報』に、壮大な東屋のイラスト掲載。鵠沼は「皆茅屋にして閑雅愛すぺし」
1899 明治32 6   医学士=高嶋吉三郎、『海水浴・附録海水浴場略案内』刊行、片瀬・鵠沼海岸を紹介
1899 明治32 7 17 横浜居留の外国人の行動を制限する居留地制度、撤廃
1899 明治32 8 20 『江島・鵠沼・逗子・金沢名所図会』を東洋堂が刊行
1900 明治33 4   鵠沼村に鵠沼肥料設立
1900 明治33 8 18 小学校令改正により授業料廃止、尋常小学校の義務教育4年となる
1900 明治33 9   小説家=徳冨蘆花(1868-1927)『思出の記』1901年3月まで国民新聞に連載
1900 明治33 10 8 鵠沼村農会、設立(会長=斎藤弥五右衛門、代表者=山上三之助)
1900 明治33 11 25 江之島電氣鐵道株式会社設立総会開催(設立登記は12月4日)
1900 明治33     境川「山本橋(現上山本橋)」、県費による架け替え工事完成
1901 明治34 4 20 東京人類学会雑誌第16巻181号、「相州鵠沼村字下藤ヶ谷で新遺跡発見」の記事掲載
1901 明治34 6   江之島電氣鐵道(藤沢−片瀬駅間)、敷設工事起工
1901 明治34 8   画家=河合玉堂(1873-1957)、對江館に来遊。『清風涼波』のスケッチを残す
1901 明治34 9   海水浴場で酌婦・貸座敷の取り締まり
1901 明治34 12 26 県下に暴風雨 江の島架設橋流失
1902 明治35 1 23 江之島電氣鐵道、鵠沼村長より軌道用地を無償譲受
1902 明治35 3 4 高瀬三郎、百両山砂丘一帯の山林2万坪余を高瀬彌一名義で購入
1902 明治35 4   尋常鵠沼小学校、尋常補習科を廃して高等科を併設し、尋常高等鵠沼小学校となる
1902 明治35 8 2 江之島電氣鐵道(藤沢−片瀬駅間 3.4km)、敷設工事完了
1902 明治35 9 1 江之島電氣鐵道藤沢片瀬間営業運転開始(藤ヶ谷付近のカーブで脱線、負傷者が出る)
1902 明治35 12 20 鵠沼浦漁業協同組合設立認可、組合長山上八造、幹事横田原太郎。組合員10名
1902 明治35     鵠沼村、戸数=370戸、人口=2,830人、男1,401、女1,429
1903 明治36 4 6 関根総四郎(清水)、神奈川県漁業許可証(第2623号 地曳網漁業)を得る
1903 明治36 9   下鰯の細川家別邸内に慈教庵(本真寺の前身)建立。開山は颯田本眞尼(1845-1928)
1905 明治38 6 11 横浜貿易新報、東屋旅館の紹介記事(鵠沼海岸の旅館は東屋のみになる)
1905 明治38 6   鵠沼村関根万蔵ほか2名、水車設置願を県知事に提出・認可される
1905 明治38 8   伊東將行が大給家と賀来神社の鵠沼遷宮を協議
1905 明治38     普門寺に日露戦役戦死戦病没者英魂供養碑造立(総高240cm)
1906 明治39 2   尋常高等鵠沼小学校に実業補修学校を併設
1906 明治39 10 9 大給近孝・伊東將行、賀来神社を神奈川県高座郡鵠沼村下藤が谷に遷座し、寄付登記
1906 明治39 11 19 鵠沼引地10番地に郵便鉄柱箱設置
1906 明治39     埼玉県吹上出身の医師=福田良平(1877-1940)、鵠沼6668に鵠沼海浜病院を開く
1906 明治39     鵠沼地区の甘藷収穫高=90万貫、繭生産高=1,528石、牛=12頭、馬=20頭、豚=52頭、家禽=2,400羽
1907 明治40 1 1 鵠沼郵便局、鵠沼下岡6642(鵠沼海岸2-8-26)に開設(初代局長=淺場金兵衛)
1907 明治40 4   皇大神宮、勅令第96号神社に指定
1907 明治40 10 18 武者小路実篤(〜23)、志賀直哉(〜26)と東屋に滞在して『白樺』発刊を相談
1907 明治40     鵠沼村空乗寺、厚木の古寺を譲り受けて建て替え
1907 明治40     鵠沼村、戸数=355戸、人口=2,696人、男1,318、女1,378
1908 明治41 2 5 江之島電氣鐵道、電灯電力供給開始
1908 明治41 4 1 高座郡藤沢大坂町・鵠沼村・明治村が合併、藤沢町となる。合併人口15043人。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 『皇国地誌』(1879) 
  • 『神奈川県統計書』
 
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