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御用邸侯補地下の写真は伊東將行の子孫にあたる右近家に残されたもので、伊東將行が東京の写真師に撮影させた現在の賀来神社付近の砂丘上から南東を望んだ光景だという。現在の鵠沼松が岡一帯が茫漠たる砂原であり、鵠沼海岸あたりにはかなり高い砂丘があったことが判る。撮影されたのは1887(明治20)年頃と伝えられ、第0002話で見た1:20,000迅速図が測図された時から5年後だが、この間の変化があまりなかったことが読み取れる。 この広漠たる砂原約25万坪を明治中期に入手したのが大給子爵だったといわれる。大給子爵家については次々項で扱う予定だが、当時大給近孝子爵は宮内省に勤めていた。同家に出入りし、後に伊東將行と共に鵠沼海岸別荘地開発の中心的な役割を担うことになる木下米三郎という人がいる。木下家は建築師を生業とした家で、先代は岡山藩の池田家に出入りし池田家と一緒に上京し、この関係で宮内省の仕事を担当するようになり、大給家や藤堂家にも仕えることになった。 大給家が鵠沼の土地を購入または菅理した動機として伝えられているのは、御用邸誘致の構想である。1889(明治22)年頃、当時宮内省では鵠沼海岸は御用邸の侯補地となっていた。宮内省の事情に通じていた大給近孝子爵と木下米三郎は、鵠沼に御用邸(皇室の別邸)を誘致することを目論んだ。御用邸誘致のための大給子爵は土地を新たに購入し、同時に御用邸の候補地として別荘全体の水準を上げるため当時の名士、財閥に買うよう奨めたという。しかしながら御用邸は土方伯爵の推奨により1994(明治27)年、葉山に決定したため大給子爵の構想は中断し、土地を開発・分譲して資金を回収する必要が生じたと、牧田知子氏が1995年 8月に、日本建築学会での学術講演に発表しておられる。 | ||||||
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