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第0105話 山本橋

石上の渡し

 片瀬川の渡河は、鴨長明の歌「浦近き砥上ヶ原に駒止めて固瀬の川の潮干をぞ待」で知られるように、鎌倉時代初期には、下流部で潮干を待って乗馬あるいは徒(かち)渡りをしていたと思われるが、鎌倉幕府への往来が活発化すると、川袋大曲流の上流側に砥上の渡し場が設けられたと思われる。皇国地誌によると、天正期には片瀬川砥上渡しが石上渡しと呼ばれるようになったという。このことについては、第0058話で触れておいた。
 江戸後期に描かれた『江嶋道見取繪圖』には、石上村の様子も描き込まれており、そこには「船橋」と書かれているが、船橋の様子は描かれていないことは第0088話で紹介した。

「山本橋」の架橋

 1873(明治 6)年6月2日、鎌倉道片瀬川の渡船を廃止し、架橋することについて神奈川県より大蔵省へ伺いが出された。これがどういう経緯で提出され、どのいう形で許可が出たのかは詳らかでないが、早くも同年10月には片瀬村の名家=山本家が架橋し、「山本橋」と名付けられた。
 後に下流の山本家近くに「山本橋」が架橋された際(架橋の時点がいつかは調べが付いていない。1902(明治35)年に江ノ電が開通した際、「山本橋」停車場が開業しているから、それ以前であることは確かだ)に、「上山本橋」と改名した。
 『皇国地誌村誌相模国高座郡鵠沼村』にはこうある。
山本橋 鎌倉府ノ頃武蔵国八王子駅ヨリ府ヘノ往来渡リニシテ天正年間マテハ砥上渡リト唱ヒシヲイツノ頃ヨリカ石神渡リトナリシヲ明治六年片瀬村ノ農山本某ノ発明ニシテ架梁トナスサレハ其旧名ヲ襲フテ砥上橋トコソアルべキニ山本橋ト標セルハ惜ムべシ橋ノ稍西ニ今仍老松二株アリ渡リナリシサマ著ルシ中央ヨリ東南東字石神(土耳[甘]砥上ナリ)ニアリ片瀬川ニ架シ鎌倉郡片瀬村ヘ通シ江島往来トス長十七間幅弐間半木製ニシテ修繕ハ本村片瀬両村ノ民費トス
 『皇国地誌村誌相模国鎌倉郡片瀬村』にはこうある。
山本橋 三等往還藤沢駅ヨリ江ノ島鎌倉通ニ架リ村ノ北方片瀬川ノ上流ニアリ本村ヨリ鵠沼村エ通ス水量三尺橋間長二十三間巾二間ノ木製ニシテ山本庄太郎自費修造ス
 両者で橋の長さと幅の数値が食い違っている。明治末期に編まれた『鎌倉郡川口村 史跡勝地古墳取調書』に「旧クハ藤澤ヨリノ往還ニ船渡アリ、石上渡ト唱ヘ、当村ト鵠沼トノ持ナリシカ、後明治六年十月片瀬ノ豪農山本庄太郎私費ヲ以テ巾弐間半、長廿三間ノ木橋ヲ架シ、橋銭ヲ徴収セシモ、其後明治三十三年ヨリ縣費ヲ以テ架橋スルニ至レリ」とあり、山本庄太郎が架橋した初代山本橋は、長さは『皇国地誌片瀬村』の二十三間、幅は『皇国地誌鵠沼村』の弐間半と合致している。
 いずれにせよ、この橋は私人が架橋したものであり、「橋銭ヲ徴収」していたのだが、1900(明治33)年「縣費ヲ以テ架橋スル」ことになったので、無料化されたのだろう。
 面白いのは『皇国地誌村誌相模国高座郡鵠沼村』に「サレハ其旧名ヲ襲フテ砥上橋トコソアルべキニ山本橋ト標セルハ惜ムべシ」と、客観的であるべき地誌書に、主観を交えた記述が見られることである。それならば、「縣費ヲ以テ架橋スル」ことになった際に「砥上橋」とでもすべきところを「上山本橋」の名になったことは不思議である。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 藤沢市教育委員会:「藤沢市史料集 11村明細帳 皇国地誌村誌」
 
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