HOME 政治・軍事 経済・産業 自然・災害 文化・芸術 教育・宗教 社会・開発


第0059話 徳川家康支配下に

小田原の役と後北条滅亡

 1590(天正18)年に豊臣秀吉が後北条氏の居城小田原城を包囲し、北条氏政・北条氏直父子を降した。世に言う「太閤の小田原攻め」、歴史学では「小田原の役」という。
 春から始まった戦いは、支城を次々に落とされながらも(厩橋城(4月19日)、松井田城(4月20日)、玉縄城(4月21日)、箕輪城(4月23日)、江戸城(4月27日)、小金城(5月5日)、臼井城(5月10日)、本佐倉城(5月18日)、岩付城(5月20日)など)小田原城は夏まで持ちこたえたが、6月26日には石垣山一夜城が完成したことが後北条側に決定的な打撃をもたらした。長く紛糾したため、「小田原評定」という言葉が生まれる小田原城内の論議の末、 7月に入ると、氏房、氏規がそれぞれ滝川雄利と家康を窓口として和平交渉に当たり、7月5日、氏直は徳川勢の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出た。
  小田原城陥落と相前後して鉢形城は6月14日に、韮山城も6月24日に、忍城は7月16日に開城した。これにより戦国大名としての後北条氏は滅亡、秀吉は天下を統一した。秀吉はその後鎌倉幕府の政庁があった鎌倉に入り、宇都宮大明神に奉幣して奥州を平定した源頼朝に倣って宇都宮城へ入城し、宇都宮大明神に奉幣するとともに関東および奥州の諸大名の措置を下した。後北条の旧領はそのまま家康にあてがわれることとなった。

徳川家康領に

 江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世を小田原城に置いた。領国は足柄上郡、下郡147ヶ村4万石であった。1594(文禄3)年、忠世が没すると、嫡子忠隣が後継となり、武蔵羽生に2万石を加増された。忠隣はさらに老中として幕閣に入ったが、1614(慶長19)年に幕閣における勢力争いから改易となった。
 1619(元和5)年、上総大多喜城主・阿部正次が5万石で小田原へ入封したが、4年後には岩槻藩に転封となった。
 1632(寛永9)年、下野国真岡藩から稲葉正勝が8万5千石で入封した。稲葉氏の時代に小田原藩の治世が確立した。稲葉氏は1685(貞享2)年に越後高田藩へ転封する。
 1686(貞享3)年、下総佐倉藩主・大久保忠朝が10万3千石で入封した。大久保忠朝は小田原藩最初の藩主・大久保忠世の5代目にあたり、当時は幕府の老中であった。以後は幕末・明治初頭まで大久保氏の支配が10代続いた。
 このように、小田原藩は相模国西半(相模川以西)を中心に、最大時には駿河国東部と伊豆国の一部までを支配するが、後北条時代に東郡と呼ばれた相模国東部は、幕府が置かれることとなる江戸に近いことから、当初は徳川家康の直轄領となり、開幕後は幕領と旗本領、寺社領がモザイク模様のように混在することになった。

東海道の整備

 徳川家康は、1590(天正18)年に江戸に入城する。この頃の江戸と平塚の間は、中原街道が実質の東海道として機能しており、徳川家康もここを往来した。
  家康は、1601(慶長6)年に「五街道整備」により、五つの街道と「宿(しゅく)」を制定し、道としての「東海道」が誕生する。日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅は、53箇所でいわゆる東海道五十三次である。その後、1603(慶長8)年には、東海道松並木や一里塚を整備する。
 鵠沼村の北辺を東海道が通ることになり、往来の旅人のために団子や飴などを売る店や茶屋が軒を並べる引地・車田の街村が形成された。引地川には土橋「引地橋」が架けられ、鵠沼・稲荷・大庭・羽鳥の4か村が共同で橋の管理に当たった。引地橋の東詰には「鍵の手」が設けられ、藤沢宿の橋頭堡としての役割を担った。
 明治になってからの『鵠沼村戸口資料』によれば、引地・車田の戸数は33戸で、關根・齋藤・森井といった鵠沼本村に共通する姓と、本村には見られない姓とが相半ばしている。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 有賀密夫:「明治初期の鵠沼村(その一)」『わが住む里』第43号藤沢市総合市民図書館(1992)
 
BACK TOP NEXT