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第0049話 中先代の乱

 1333(元弘3)年、鎌倉幕府は新田義貞らの攻撃で陥落し、北条氏は滅亡する。鎌倉幕府滅亡後、天皇親政である「建武の新政」が開始され、鎌倉には、後醍醐天皇の皇子の成良親王を長とし尊氏の弟の足利直義が執権としてこれを補佐する形の「鎌倉将軍府」が設置された。しかし、この建武政権は武家の支持を得られず、北条一族の残党などは各地で蜂起を繰り返していた。
 1335(建武2)年7月22日、北条時行は信濃で挙兵して、鎌倉奪還に成功する。
 7月23日、足利直義は、鎌倉をいったん退いた時、家来の淵部義博に対して、護良親王の殺害を命じた。刺客の淵部義博が薬師堂谷にある土牢に近づくと、護良親王をそれを察知して立ち向かった。しかし、護良親王は、土牢に長い間監禁されていたので、力尽き、刺客の淵部義博がつきつけた刀の切っ先を口にくわえ、噛み折って、壮絶な最期を遂げた。
 8月、足利尊氏は、勅許を待たずに鎌倉に下向し、足利直義と合流して、鎌倉を奪回した。北条時行は、20数日の間鎌倉を占拠していたことになる。北条氏を先代、足利氏を後代とする立場から北条時行を中先代とし、この乱を中先代(なかせんだい)の乱という。この乱の最終段階の激戦が辻堂・片瀬原合戦である。

辻堂・片瀬原合戦

 8月19日、辻堂・片瀬原合戦では、足利尊氏軍の三浦葦名判官盛員・六郎左衛門尉父子が討死。その他「御方打死人敷」として多くの名が挙げられており、 両軍共に犠牲の多い戦いであった。
 「辻堂・片瀬原合戦」は、後世に名付けられた合戦名らしく、1559(永禄2)年2月に条氏康が作成した小田原衆所領役帳が「辻堂」の初出とされる。
 いずれにせよ、この合戦名には「辻堂」、「片瀬」という鵠沼の両隣の地名が出てくるが、鵠沼の名はない。どうやら大軍が駆け抜けたであろうが、血なまぐさい光景は見られなかったのだろう。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 [引用文献]
  • 足利尊氏関東下向宿次・合戦注文『神奈川県史 資料編3 古代・中世』
 
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