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第0042話 万福寺創建

万福寺

 清光山(鵠沼山)万福寺と号し、僧源海が1245(寛元3)年開山・創建したという浄土真宗(東本願寺系)の寺である。寺伝によると、源海は俗姓安藤駿河守隆光と称し、武州児玉党の武将で、武州豊島郡荒木村に代々住していた。その遠後は藤原鎌足に発すという。隆光は二児が同時に死去したのに落胆し出家した。その頃後に浄土真宗の開祖となった親鸞(1173―1262)は、越後に流配され、四年後赦免されたが帰京せず1214(建保2)年妻忠信尼を伴ない関東に移住し、以後約20年間民衆の布教に専念した。隆光、後の荒木源海が常陸笠間の稲田の草庵に親鸞を訪ねて、弟子となったという。後に関東六老僧の一人となり、1245(寛文3)年鵠沼の地に一宇を建て、清光山万福寺と称したという。笠原一男の「親鸞と東国農民」によると、親鸞面授の門弟数は四四人で武蔵国では、西念をあげている。また、親鸞上人の直系―真仏―顕智―専空(以下略)、真仏の門流に、顕智、専信、専空、源海(荒木沼福寺)、了海(麻布善福寺)、了源(京都仏光寺)が六老僧とよばれて、聖人没後の関東教団はもとより他地方にまで広範な教線を張った俊才であったと記している。これには別説もあり(省略)、いずれ今後の課題である。
 その後、寺は1502(文亀2)年火災で焼失、1508(永正5)年再興されたが、まもなく小田原北条氏綱の弾圧を受けた。1528(享保元)年氏綱は領内の真宗寺院を迫害した。甲州の武田信玄は本願寺の親戚に当り、真宗に好意をもっていたために、氏綱は宗徒が一揆を起して信玄に通ずるのを警戒した。そこで氏綱は相模の真宗寺院を浄土宗に改宗させ、鎌倉の光明寺の末寺にしようとした。このとき、万福寺の住職空円は断固としてこの命令を拒否したため、終に空円は六本松原のもとで断殺され、寺は破却された。このとき空円は静かに念仏を唱え、従容として死についたという。
 寺は、享保年間に没した良意によって中興されたが、1897(明治30)年9月焼失した。(二十三世良明の時か)以後仮堂ですごしたが、その後復興し現在に至っている。

 ●本尊  木像阿弥陀如来立像で、江ノ島将来を伝える。旧本尊は明治30年の火災で焼失したため、現在の本尊は茅ケ崎市小和田の阿弥陀堂(真言宗子手院持の阿弥陀堂の本尊を移入したもので総高約65p、空乗寺の本尊と類似した上品下生印をむすぶ来迎仏である。
 ●木像阿弥陀如来立像、総高約52p、黒仏と称し、江戸小日向の廓然寺(明治初期廃絶)の本尊であったという。江戸前期の作。
 ●木像阿弥陀如来坐像、総高約32p、その外多数あるが略す。

 主な墓碑
 ●大磯屋……数十基あり、その中には飯盛女の墓も含まれるという。比較的古い墓碑は「1692(元禄5)干申年12月25日猪飼甚右衛門」である。
 次は「1738(元久3)戌午7月3日釋露林辰士猪飼市衛門」
 次は「1770(明和7)年寅夫2月10日 釈 良哲妙誓位、俗名甚右衛門、以子数代略す。
 「猪飼蓬泉墓碑」塔身右側面に「三日月の居住直る箪(たかむしろ)」の蓬泉の句を刻む。
 註 大磯屋は1863(文久3)年の書上書によると、遊行寺橋を渡ると青柳屋吉太郎、次が中屋源蔵、次が大磯屋市衛門、次が湊屋六郎とある。
 出身は大磯で代々飯盛旅館を営んでいた。明治維新後に廃業、藤次郎の子勝次郎は薬種商となり、その子次郎は市議となったが今は絶家。
 ●阿部松翁と石年先生の墓碑……ともに学者で、父の阿部松村は1817(文化14)年に、子の石年は1835(天保6)六年(3月14日没している。特に石年は玄道宝所とも号し、書家として有名であるが、俳句にもすぐれていた。
 ●この他、内藤千代子の墓・森銑三夫妻の墓など文化人の墓があるが、今回は割愛する。
萬e寺年表    
西暦 和暦 記                        事
1245 寛元 3   荒木源海(俗名:安藤駿河守隆光)、鵠沼に清光山(鵠沼山)萬e寺(浄土真宗)を開基創建
1333 元弘 3     新田軍が放火したため、本寺の諸堂は悉く烏有に帰す
1470 応仁 4   鵠沼神明の萬e寺板碑、造立
1502 文亀 2   萬e寺、火災により消失。以後7年間他に転ず
1508 永正 5   萬e寺、再興
1528 享禄 1     北条氏綱、真宗寺院を弾圧。萬e寺住職=空円を六本松原で断殺。寺を破却
1590 天正18 7   豊臣秀吉、当寺の第十世、唯順に制札を与えて、軍勢の狼藉を禁じる
1593 慶長 7     本山の本願寺が東西に分かれ、東本願寺に属す
1663 寛文 3   萬e寺住持=良意、梵鐘を鋳替え
1672 寛文12     疫病が流行った際、病躯に本尊を移すと、翌日から平癒したと伝えられる
1691 元禄 4 11 鵠沼神明3-4西宮越の萬e寺脇庚申塔(三尊種子・三猿像)、造立
1718 享保 3 8   萬e寺中興、良意没。これまでに中興
1719 享保 4 11 鵠沼神明3-4西宮越の萬e寺脇庚申塔(青面金剛像・日月三猿像)、造立
1772 安永 1 6   鵠沼村萬e寺と同村普門寺との間に争論発生
1775 安永 4 10   鵠沼神明3-4萬e寺脇の大乗妙典六十六部供養塔、造立
1776 安永 5 7   羽鳥村三觜家、鵠沼村界引地川に水車設置
1803 〜文化年間   松本文次郎を師匠とする寺子屋開業
1817 文化14 11 11 萬e寺境内の阿部松翁墓碑、造立
1821 文政 4 10   萬e寺廿世=良締、梵鐘を再鋳造
1829 文政12 9   松本文次郎による萬e寺の寺子屋、廃業
1829 文政12   萬e寺の寺子屋、住職を師匠として再開?
1831 天保 2 4 21 萬e寺境内の猪飼蓬泉墓碑、造立“三日月の居住直る簟(たかむしろ)”
1835 天保 6 3 14 阿部石年、没。藤澤宿の常光寺に葬られたが、後に萬e寺に移される
1859 安政 6 9 3 鵠沼村萬e寺=道得ら僧3名・俗1名、高野山に登山
1897 明治30 9   萬e寺本堂、消失
1925 大正14 3 23 作家=内藤千代子)、肺及び咽頭結核で死去。享年:31歳。鵠沼神明の萬e寺に埋葬
1943 昭和18   萬e寺梵鐘、供出
1971 昭和46 3 12 萬e寺で住民集会。鵠沼神明公害対策委員会の結成を話し合う
1971 昭和46 3 16 萬e寺で住民の総決起集会。会社の検診ボイコットを決定
1988 昭和63 5 21 鵠沼の萬e寺に「大気汚染告発記念碑」が造立され、除幕式挙行
1994 平成 6 10 17 (荒木)蕉窓句碑、萬e寺境内に造立
1999 平成11 6 29 鵠沼を語る会、座談会「本村地域に残された生活と慣習」場所:鵠沼神明 萬e寺
2003 平成15 10   萬e寺、太子堂新築工事完成。落慶法要
2005 平成17 3 31 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』90号発行(鵠沼海岸別荘地開發記念碑・萬e寺ほか)
2011 平成23 2 3 萬e寺二十五世=荒木良正老師、入寂
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 [参考文献]
  • 荒木良正:「万福寺をめぐる伝説」『藤沢史談』第10号(1960)
 
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