HOME 政治・軍事 経済・産業 自然・災害 文化・芸術 教育・宗教 社会・開発


第0038話 歌枕砥上ヶ原

西行と砥上ヶ原

 鎌倉時代になると、幕府のある鎌倉の上方(かみがた)側にある鵠沼を通過する旅人や、鎌倉から遠馬や鷹狩りにくる武将なども増えた。当時の湘南砂丘地帯は砥上ヶ原と呼ばれる寂しい砂地の荒野だった。
 砥上ヶ原という地名が現れるのは、鎌倉時代を迎えてからと思われる。1185(文治元)年の平宗盛の東下りをあつかった『平家物語』のなかに「砥上(トカミ)が原」が見えるのが早い例であろう。

 砥上ヶ原の寂しさは、ここを通る歌人の心をとらえ、歌枕となった。
 最もよく知られているのは、1186(文治 2)年8月頃、西行法師が鎌倉に旅する途中砥上が原を通過したときに詠んだとされる『山家集』に載る
 「芝まとふ 葛のしげみに 妻こめて 砥上ヶ原に 牡鹿鳴くな里
であろう。ここにはシバ、クズ、シカの3種の生物が読み込まれている。もっとも最初のシバは芝と書かれているが芝生のシバではなく、柴、すなわち藪をなす小さな木を指すと思われる。「お爺さんは山へ柴刈りに」のシバである。従って「藪を覆うクズの陰に牝鹿を隠し、寂しい砥上ヶ原に牡鹿の求愛の鳴き声が響いているよ」ほどの意味になろうか。今でも丹沢の山々が紅葉で彩られる頃、この声を聞くとができる。百人一首にも選ばれた猿丸太夫の「奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき」さながらの風情である。砥上ヶ原のニホンジカ(学名:Cervus nippon)はとうの昔に絶滅したと思われるが、近年、丹沢のニホンジカは増えすぎて問題化している。一昨年、そのうちの1頭が藤沢市域に現れて「殺処分」された。
 この西行の歌の碑は茅ヶ崎市文化資料館前と辻堂の熊の森神社にあるが、鵠沼にはない。文学マニアの間では茅ヶ崎や辻堂が砥上ヶ原であるとの認識がこれらの碑の存在のために広まりつつあることが、いくつかのブログなどで読み取れる。
 熊の森神社の碑文は「柴松のくずのしげみに妻こめて となみが原に小鹿鳴くなり」となっているが、何を原典にしたかは不明である。
 西行没後の1186(文治2)年に編まれた『西行物語』には、西行が鎌倉に旅する途中砥上が原を通過、「芝まとふ…」の歌を詠んだその夕刻に次の歌を詠んだことになっている。但し、初出の「山家集」からは何処で詠んだ歌か推測できない。
 「こころなき身にもあはれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮
 寂蓮法師の「さびしさは…」、藤原定家の「見わたせば…」と共に『新古今和歌集』の「三夕(さんせき)」に選ばれる西行の代表作として知られる。
 この歌は大磯で詠まれたと信じて疑わない向きが案外多い。その根拠とされるのが17世紀の中頃に小田原の俳人崇雪(透頂香(とおちんこう)で知られる薬商外郎(ういらう)家主人)が五智如来の石仏を運んで草庵を結び「鴫立沢」の碑を立てたことによる。この「鴫立庵(でんりゆうあん)」には1765年に芭蕉の友人、大淀三千風(みちかぜ)が入庵して俳諧道場となった。
 しかし、この庵は西行没後500年を経て建てられたものだし、西行自身はどこで詠んだかを書き残していないので、明治時代、近代国文学が体系化されると、多くの国文学者の関心を引き、巷間でも様々な噂が飛び交った。
 明治大正期、鵠沼で活躍した小説家内藤千代子は、友人に「あ、西行てばねエ兄様、大磯に鴫立つ庵と云ふのが御座いますわねけれどほんとの鴫立つ澤は、この鵠沼のあたりだつたんですつて、屹度あの片瀬川の辺でヾもあつたのよ。昔はこゝらは大きな沼でね、その時分鵠の鳥つて鶴に似た大きな鳥が澤山おりてね、それで鵠沼といふんですとさ、現に池袋※なんてとこがありますと。あら、松岡さんに聞いたのよ、事實さう言はれると大磯よりか此方の方が本場らしいわ。こんなに茫々したーねェ何百年か以前はきつとそんな沼だつたんでせうね。」と語っている。 ※池袋は川袋の勘違いだろう。
 また、大正末から昭和初期、鵠沼に住んだ一高校長で歌人・国文学者の杉 敏介は、筋向かいに住む教え子の瑙彌一と交流し、瑙家の下の沼沢地にシギが降り立つことを聞いて次の歌を詠んだ。
 瑙彌一君より今も砥上の川袋に鴫あまた降り立つ由を聞きて、西行の跡なめりと思ひて
 「砥上原いまも鴫立つ澤をおきて いづくに古き跡をたづねむ」
 この歌を紹介した瑙彌一の長女笑子氏は、「父はこの歌の碑を建てたかったのだろう」と述べておられる。
 内藤千代子も杉 敏介も、よりどころは『西行物語』と思われる。先述のように、これは西行没後に編まれたものだから、確証とする根拠には乏しい。
 「芝まとふ…」は砥上ヶ原とい具体的な地名が詠み込まれている。砥上ヶ原とはどの範囲かには諸説があるが、辻堂は八松(やつまつ)ヶ原(八的ヶ原とも)という呼び名があり、『源平盛衰記』や『平家物語』には砥上ヶ原と並記されているので、砥上ヶ原とは鵠沼、すなわち境川と引地川に挟まれた原野と考えたい。
 鎌倉時代の砥上ヶ原は、単なる砂原だけでなく、両側の河川の自由蛇行による湿原や三日月湖(河跡湖)が点在していたと思われる。万福寺の寺伝では、開基荒木源海上人は、鵠(くぐひ)の棲む池の一角を埋めて一宇を建てたとされるから、万福寺のあたりにも引地川の河跡湖があったことが想像できる。
 『鵠沼』85号の拙稿「川袋低湿地形成と蓮池の変遷(序説)」で考察しておいたように、湘南砂丘地帯形成史の上で最も陸化が遅れたのは、川袋低湿地と名付けておいた鵠沼藤が谷4丁目一帯である。『西行物語』の記述を信じるならば、このときの西行は鎌倉に向かっているわけだから、砥上ヶ原の歌を詠んだその夕刻に次の歌を詠んだということは、砥上ヶ原の鎌倉方向に半日行程のあたり、すなわち川袋低湿地で鴫立沢の歌を詠んだと筆者は睨んでいる。
 鴫というのは一種の生物ではなく、チドリ目シギ科の鳥の総称である。タシギ・イソシギ・ヤマシギ・アオシギなど種類が多いが、いずれも嘴・脚・趾などが長く、水辺に棲み、水棲の小動物を餌としている。西行が出会ったのは何という種の鴫かは特定できないが、出会った場所は沼沢地と考えるのが自然である。
 「沢」という漢字には丹沢の沢登りなどに使われるように山地の小流を指す用例と、沼沢地のように低湿地を指す用例とがある。鴫が群れたつのは無論後者である。大磯の鴫立庵付近には前者はあるが後者はない。
 鴫立庵に住んだ大淀三千風には次の歌がある。
 「鴫立ちし沢辺の庵をふきかへて、こころなき身の思ひ出にせん」
 この歌に詠み込まれた「沢」は、明らかに前者の用例である。鴫立庵は沢辺にあるが、海岸にもほど近く、浜辺に群れたつシギ科の鳥もあるから、大磯で詠まれたことは絶対にあり得ないとはいいきれないが、かなり不自然である。 

鴨 長明と砥上ヶ原・固瀬川

 次に、1211(建暦元)年に鴨 長明が飛鳥井雅経と共に鎌倉に下向し、将軍源実朝と会見する前、砥上が原で固瀬川の潮待ちをした時に詠んだ
 「浦近き砥上が原に駒とめて 固瀬の川を汐干をぞ待
 この歌で気になるのは、彼らが選んだルートである。「浦近き」とあるから、海岸沿いのルートがあったのだろう。鎌倉時代の絵図は見たことがないが、引地川はこの時代、千ノ川を流路とし、相模川に注いでいたのか、あるいは第一砂丘の北側を東流し、片瀬(固瀬)川に注いでいたのか、いずれにせよ、引地川を渡らずに固瀬川徒渉点まで来たような気がする。川を渡るために汐干を待つということが珍しかったから歌として残されたのだろう。

源 實朝と砥上ヶ原

 さて、これまで紹介した鎌倉時代の歌人が砥上ヶ原を詠んだ歌では無人の荒野しか連想できないが、多少なりとも人の姿が想像される歌が一首ある。
 鎌倉三代将軍源 實朝が1213(建保元)年編んだ『金槐和歌集』に
 鳥狩しに、砥上が原といふ所に出で侍りし時、荒れたる庵の前に蘭咲けるを見てよめる
 「秋風になに匂ふらむ藤袴 主はふりにし宿と知らずや
 とあるのがそれだ。「蘭」というとカトレアやクゲヌマランを連想するが、鎌倉時代の蘭はフジバカマ(学名:Eupatorium fortunei)を指したらしい。庵の前に咲いているのだから、野生ではなく人為的に植栽されたものかもしれないが、いずれにせよ余り派手な花ではない。かつては鵠沼にも自生が見られたのだろうが、『鵠沼』1号の伊藤 昌氏の「昭和18〜20年頃の鵠沼の花々」にも、8〜9号の伊藤節堂氏の「鵠沼の野草(その1〜3)」にもフジバカマの記録はない。筆者の記憶も不明確である(拙宅にはプランターに植栽してあるが)。少なくとも現在の鵠沼では顕著な分布は認められない。
 これまで見てきたように、鎌倉時代の歌人に詠まれた砥上ヶ原の歌は、残念ながらここ鵠沼に歌碑などが建てられた形跡がない。先述のように鵠沼以外の場所には歌碑が建てられている。そのため、歌碑のある場所でその歌が詠まれという誤った認識が広まっていることは、問題といわざるを得ない。
 筆者の夢は、砥上ヶ原の名残が忍ばれる一角にクズとフジバカマを植えた小公園を造り、そこにこれらの歌(杉 敏介の歌を含んで)を刻んだ歌碑と解説板を建てることである。それにふさわしい場所としては、「第一蓮池」の西に隣接する一角を推薦したい。もっとも、クズが外にはびこらない工夫が必要だが。 

冷泉為相と砥上ヶ原

 クズといえば、鎌倉に住んでいた冷泉為相(れいぜいためすけ)が砥上ヶ原に遊び、次の歌を詠んで、『為相百首』に載せている。
 「立帰る名残ハ春に結びけん 砥上が原の葛の冬枯
 こうしてみると、鎌倉時代の歌人の目に映った砥上ヶ原の植生は、クズが代表的だったと思われる。クズは現在でも鵠沼でわずかに自生が見られる。
 クズ(学名:Pueraria lobata (Willd.) Ohwi)は秋の七草に数えられるほどよく知られたマメ科のつる性の多年草。根からは良質の澱粉、葛粉が生産され、漢方の風邪薬として有名な葛根湯(かつこんとう)が作られる(原料の一部に過ぎないが)他、蔓を細工物に用いて篭などが編まれたり葛布(くずふ)が織られたりした。しかし、荒れ地にもよく繁茂し、他の植物を覆い被すマントル植物なので、きわめてやっかいな雑草として認識されている。元来東アジアから東南アジアが原産だが、欧米に持ち込まれて猛烈にはびこり、世界の侵略的外来種ワースト100 (IUCN, 2000) 選定種の一つとなっているほどだ。
 従って、クズの生い茂った土地というのは荒れ地であって、決して豊かな土地とはいえない。少なくとも鎌倉時代の鵠沼は貧しい荒れ野だったといえよう。

『海道記』の砥上ヶ原

 1223(貞応 2)年に出された『海道記』に
やつまつのやちよのかげに思ひなれてとなみが原に色もかはらじ
とあり、この場合の「となみが原」は、砥上ヶ原を指すと考えて良いだろう。「やつまつの」は八松ヶ原、すなわち辻堂の古称である。

固瀬川を詠んだ歌

 固瀬川は現在の片瀬川、すなわち境川、柏尾川合流点より下流と考えて良さそうである。ここは、鎌倉の結界という位置づけで、鎌倉時代前半は刑場としてその名が出てくる。後半になって刑場は龍ノ口に固定されたようである。
 1266(文永 3)年7月、6代将軍宗尊親王が、謀反で鎌倉を追われ帰京する際に
帰り来て又見ん事も固瀬川濁れる水のすまぬ世なれば
と詠んでいる。
 「ここへはもう戻ることは難しいだろうなぁ」と掛詞に固瀬川を使っているのだが、もう一つ興味深いのは、固瀬川はどうやら当時から余りきれいな水が流れていなかったのではないかと読み取れることである。言ってみれば、この川は、濁流が見られる川の代表例と認識されていたのではなかろうか。
 県立大清水高校が、藤沢高校と統合して新しい高校が境川の岸辺に開校したが、この学校に「藤沢清流高校」と命名した方は、上記のような事情をご存じだったろうか。

 また、冷泉為相は、
打わたす今や汐干のかたせ川思ひしよりハ浅き水かな
と詠んでいる。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 [参考サイト]
[参考文献]
  • 渡部 瞭:「鵠沼の生き物あれこれ」『鵠沼』第101号(2010)
 
BACK TOP NEXT