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源 頼朝の鎌倉入域「イイクニ(1192)ツクロウカマクラバクフ」などという記憶法が余りにも普及したために、「鎌倉時代は1192(建久3)年の開府から1333(元弘 3)年の新田義貞軍による幕府滅亡までという認識が一般的に動かしがたい事実として存在する。しかし、中世史を研究した方々は、開府以前に頼朝は武家政治という新しい政治制度の基礎固めを済ませていて、開府以降1199(建久10)年に没するまでの数年間には、特に目立った仕事はしていないということを指摘される。1180(治承 4)年に関東を平定して、父祖ゆかりの鎌倉に入域してすぐに武家政治の組織化に取り組み、1185(文治元)年に平家を滅亡に追いやった頃にはほぼこれが完成していた。天下平定となると1189(文治 5)年の奥州征伐での藤原氏滅亡まで待つべきかも知れない。 いずれにせよ、平安時代の平安かつ鄙びた鵠沼の人々の暮らしは、頼朝の鎌倉入域を期に、打ち破られたに違いない。少なくとも鵠沼のエポックは頼朝の鎌倉入域を期にやってきた。 骨肉相争う武家社会、つまり軍事政権は、骨肉相争う 陰惨な時代である。頼朝自身、叔父を二人、異母弟の義経を滅亡に追いやった。 その他にも木曾義仲など源氏の係累と敵対し、これを打ち破っている。 関東を平らげ鎌倉に入域した頼朝と対立した骨肉は、常陸国信太荘(茨城県稲敷市)に居住していた叔父の志田義広だった。 1183(寿永2)年2月、源頼朝の御家人の多くは平家に対抗しようと駿河国に在った。その隙に乗じて志田義広は鎌倉に向けて兵を挙げた。これに対し源頼朝は下河辺行平と小山朝政に対応を託し、下野国を舞台に激しい戦いが展開された。長年対立していた小山氏と藤姓足利氏との決着が付き、小山氏は下野において頼朝の厚い信任と権力を得た。これにより関東において頼朝に敵対する勢力は無くなった。敗れた志田義広は源義仲の下に加わるが、最期は伊勢国で討たれた。 源為義の十男である叔父の源行家は、1180(治承4)年5月に挙兵した以仁王の令旨を持って東国に下向し、頼朝や義仲をはじめとして源氏の蜂起を促した人物だが、頼朝挙兵後も独自の行動をとり、以後は極めて不運な武将である。 やがて頼朝と義経の対立が表面化すると義経に協力したが、1186(文治2)年、潜伏しているところを北条時定らに発見され、梟首された。 「判官贔屓(ほうがんびいき)」ということばがあるほど、九郎判官源 義経に対する人気は根強い。 頼朝の異母弟である義経は、兄頼朝の蜂起に「富士川の戦い」で快勝し、黄瀬川(静岡清水町)で陣を張る頼朝の元に、義経は身を寄せていた藤原秀衡配下の佐藤忠信兄弟ら80騎と共に馳せ参じ、頼朝・義経は協力して平家を倒すことを誓いあった。以後、「宇治川の戦い」、「一ノ谷の戦い」、「屋島の戦い」、「壇ノ浦の戦い」と、天才的ともいえる赫々たる戦果を挙げて、平家滅亡の中心人物になるが、頼朝の構想する武家政権確立方針とそりが合わず、頼朝の目から勝手な行動と映ったと共に、御家人の讒言も加わり、不運な誤解が重なって、鎌倉入域を許されなかったばかりか、追討令を出されてしまう。 旧恩ある藤原氏を頼って奥州に下るが、結局発覚し、衣川で囲まれ自害する。首は酒漬けにされて鎌倉に送られ、腰越浜で首実検の末、打ち捨てられる。この首は金色の亀の背に乗って固瀬川を遡り、領家(藤沢)に辿り着いたので、里人がこれを洗って葬ったという伝説がある。古くからあった寒川神社の末社は、義経の霊を合祀し、白旗神社と改名した。皇大神宮例祭の四番山車、宿庭町内の人形は源 義経である。 頼朝、怨霊に遭遇1198(建久 9)年12月29日、頼朝は、相模川に稲毛三郎が1195(建久 6)年7月に亡くなった妻の供養のために架橋した橋の供養式典に出掛けた。この橋は、現在の相模川より1.5kmほど東方、小出川の流路に流れていたことが1923年の大正関東地震の地盤隆起により水田の中から橋桁が出現して所在が判明した。稲毛三郎の妻とは、頼朝の妻政子の妹だから、頼朝にとっては、義理の妹にあたる。この日に起こった出来事が、年をまたいで約半月後の頼朝の死につながるらしいのだが、幕府の正史といえる『吾妻鏡』にはこの辺の事情の記述が極めて曖昧なため、様々な俗説が生まれることとなった。 地元茅ヶ崎では、橋に慣れない頼朝の乗馬が橋の上で竿立ちとなり、頼朝は落馬して負傷。馬は欄干を飛び越えて相模川に飛び込んだ。そのためにこの川を「馬入川」と呼ぶようになったと伝えられる。 別説では、橋からほど近い鶴嶺八幡宮の鳥居前にさしかかった時に、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、馬が暴れ出して棒立ちとなり、落馬をした頼朝が傷を負った。後年里人たち相計り義経一族の霊を慰めるために、この場所に弁慶塚を造ったと伝えられている。 また別説では、帰途、八的ヶ原(やまとがはら=八松ヶ原=辻堂一帯)に差し掛かった所で、馬が俄に興奮しだし、ただならぬ気配が生じて、頼朝の頭上に義経主従と叔父源行家の怨霊が現れたのである。その怨霊たちは、ただじっと頼朝の顔を見据えていただ。頼朝は、その怨霊たちの姿を絶えがたい恐怖を感じ、汗を掻き身を縮めた。何とか持ちこたえて、砥上ヶ原を越えて先を急ぐと、今度は稲村ヶ崎の辺りで、波間に十歳ばかりの童が現れて、じっと頼朝を見ている。幼くして壇ノ浦の藻くずと消えた安徳天皇の亡霊っだった。流石の頼朝も、心の平穏を保つことが叶わず、ついに気を失い、馬から落ちて倒れてしまった。 |
源頼朝略年譜 | ||||
西暦 | 和暦 | 月 | 日 | 記 事 |
1147 | 久安 3 | 4 | 8 | 源義朝の三男として尾張の国に生まれる |
1158 | 保元 3 | 2 | 3 | 皇后宮に着く |
1159 | 平治 1 | 1 | 29 | 右近衛将監兼任 |
1159 | 平治 1 | 2 | 13 | 上西門院蔵人補任 |
1159 | 平治 1 | 3 | 1 | 母の死 |
1159 | 平治 1 | 6 | 28 | 二条天皇蔵人補任 |
1159 | 平治 1 | 12 | 9 | 〜26、平治の乱 |
1160 | 永暦 1 | 3 | 11 | 伊豆蛭が小島に配流(14歳) |
伊東祐親の三女=八重姫との間に千鶴丸をなすが、祐親に殺される | ||||
北条時政の長女=政子と結婚 | ||||
1180 | 治承 4 | 8 | 17 | 源頼朝、伊豆で旗揚げ。大庭景義は頼朝の麾下に参加 |
1180 | 治承 4 | 8 | 23 | 石橋山の戦い。景親率いる大庭勢の圧勝。頼朝は船を仕立て安房国へ逃れる |
1180 | 治承 4 | 9 | 鎌倉へ入域のおり鵠沼北方の六本松で大庭景親の軍勢と激戦を交える | |
1180 | 治承 4 | 10 | 6 | 鎌倉へ入る |
1180 | 治承 4 | 10 | 23 | 大庭庄司平景義(景能)、御家人となり、大庭御厨の本領を源頼朝より安堵される |
1180 | 治承 4 | 10 | 26 | 大庭景親父子、固瀬(片瀬)河原で斬首。処刑者、兄の大庭景義(景能) |
1181 | 養和 1 | 7 | 18 | 鶴岡八幡宮を移転、鎌倉都市計画の拠点に据える |
1182 | 寿永 1 | 8 | 12 | 次男=頼家、誕生 |
1182 | 寿永 1 | 鶴岡八幡宮参道の段葛、源平池の造営。文覚が江ノ島に弁財天を祀る | ||
1183 | 寿永 2 | 2 | 23 | 野木宮合戦で叔父=源義弘を討伐 |
1184 | 元? 1 | 1 | 20 | 宇治川の戦い、源(木曽)義仲を討つ |
1184 | 元? 1 | 4 | 鎌倉から逃れた源義高を誅殺 | |
1184 | 元? 1 | 8 | 叔父の源行家討伐を謀る | |
1185 | 文治 1 | 3 | 24 | 源氏軍、平家を壇ノ浦に滅ぼす。守護・地頭の設置。 |
1185 | 文治 1 | 5 | 15 | 異母弟=源義経の鎌倉入りを認めず |
1185 | 文治 1 | 10 | 18 | 義経と行家に追討令を発する |
1185 | 文治 1 | 11 | 17 | 大庭野で鷹狩り。渋谷重国の館に一泊 |
1186 | 文治 2 | 5 | 12 | 叔父=源行家、北条時定軍により斬首 |
1189 | 文治 5 | ウ4 | 30 | 義経が平泉で自害。6月13日、腰越浜で首実検 |
1189 | 文治 5 | 7 | 〜9月、奥州征伐 | |
1189 | 文治 5 | 鷹狩りで大庭御廚に来訪、高座郡渋谷重国館に宿泊。 | ||
1190 | 建久 1 | 11 | 9 | 上洛し、六波羅で後白河法皇と会談、権大納言を受命 |
1192 | 建久 3 | 3 | 13 | 後白河法皇崩御 |
1192 | 建久 3 | 7 | 12 | 源頼朝が征夷大将軍に任命される→鎌倉幕府の開府 |
1192 | 建久 3 | 9 | 17 | 三男=源実朝、誕生 |
1194 | 建久 5 | 4 | 9 | 頼朝が征夷大将軍を辞す |
1198 | 建久 9 | 12 | 27 | 相模川橋供養で落馬。帰途八的が原にて、源氏義広、義経、行家以下の人々の怨霊に遭遇 |
1199 | 建久10 | 1 | 11 | 源頼朝、出家 |
1199 | 建久10 | 1 | 13 | 源頼朝、没。享年51 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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