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第0037話 那須与一と鵠沼

一番山車

 毎年8月17日に開催される皇大神宮の例大祭は、9台の人形山車が勢揃いする神奈川県最大の山車祭として知られている。1982(昭和57)年、「かながわのまつり50選」に指定された。
 この祭の一番山車は、宮ノ前町内で、人形は那須与一である。他には日本武尊や天皇が二人、征夷大将軍が二人も含まれているが、そうした大物を差し置いて那須与一という、いわばエピソードだけが有名な武将が一番山車という重責を担っているのには、それなりの理由がある。
 宮ノ前町内は、地名からも判るように皇大神宮境内を含むお膝元の集落で、代々の神主も住んでいる町内だから、ここが一番山車を担当するのは、当然といえば当然である。

奈須野ヶ原

 皇大神宮東方一帯をかつて奈須野ヶ原と呼んでいた。
 1830(文政13)年、藤沢宿の小川泰二が著した『我がすむ里』巻の下に次の件がある。
神明宮森
 鵠沼村にあり、森のうちに、神明天照皇太神鎮座まします、当社ハ、むかし奈須与市宗高、元暦の闘ひに扇の的を射る時、一心に天照太神を祈念し奉り、難なく其的を射て落し、誉れを一天にあげしより、常陸国真壁郡に母方の所縁あるに依て茲に太神宮を勧請せりと云伝ふ、その時の弓なりとて、農家に伝来す、また、この森の辺を奈須野とも呼で、この原の雲雀ハ、野州奈須野にひとしくて他所の産よりハ声うるハしく、御片脚短かきを証とするよし、我去ぬる年駿河の駿東郡原の駅に遊びし時、鳥を飼人の物がたりに聞けり

 「御片脚短かきを証とする」というのは、弓の名手那須与一は、弓の練習により腕の長さが左右で違っていたという言い伝えに基づくと思われる。

 1184(寿永 3)年、那須与一宗高が合戦の帰途に皇大神宮を参拝、屋島にて扇の的を射たる弓一張と残の矢を皇大神宮に奉納、併せて、領地那須野百石を寄進したとあるが、領地那須野百石がその後どうなったかは不明である。
  『皇国地誌』1185(文治元)年3月の条には「那須与一宗高、鵠沼に一社を創建し皇大神宮を勧請、家臣浅間某を看護俸給せしめる」とあるが、皇大神宮の創建は奈良時代にまで遡るから、皇国地誌調査時点での齟齬に基づくと思われる。「家臣浅間某を看護俸給せしめる」についてだが、明治初期の鵠沼村戸口資料によれば浅間を名乗る家は、原町内に1軒あり(現存)、有賀氏の調査の際には、那須与一の家臣である証拠は不明確だという。

那須与一

 那須与一は 下野国那須の武将で、父は那須資隆(太郎)。妻は新田義重の娘といわれるが、生没年を含めて明確な史料は見つかっていない。『平家物語』にある「扇の的」のエピソードのみで知られる武将である。
 与一は十あまる一、つまり十一男を示す通称だということだが、兄はほとんど平家方についたため、源氏方についた十一男の与一が那須氏を継いだといわれている。
 『平家物語』にある「扇の的」は、次のような話である。
 「ころは二月十八日の酉の刻ばかりのことなるに、をりふし北風激しくて、磯打つ波も高かりけり。舟は、揺り上げ揺りすゑ漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。沖には平家、舟を一面に並べて見物す。陸(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。いづれもいづれも晴れならずといふことなし。与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくば、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度(ふたたび)面を向かふべからず。いま一度(ひとたび)本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」と心のうちに祈念して、静かに目を見開いたれば、風も少し吹き弱つて、扇も射よげにぞなつたりける。  与一、かぶら矢を取つてつがひ、よつぴいてひやうと放つ。小兵といふぢやう、十二束三伏、弓はつよし、かぶらは浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要ぎは一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。かぶらは海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、 海へさつとぞ散つたりける。 夕日のかかやいたるに、 みな紅の扇の日出したるが、 白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ 揺られければ、沖には平家、ふなばたをたたいて感じたり、 陸には源氏、えびらをたたいて どよめきけり。」
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

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