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頼朝挙兵と大庭氏大庭景親は、治承4(1180)年挙兵した以仁王、源頼政との戦いに動員され、平家の東国侍別当伊藤忠清に源頼朝謀反の企てを聞く。同年8月の頼朝挙兵の第一報は景親から清盛に届く。相模の平家勢の大将として弟俣野景久と石橋山で頼朝勢を破る。しかし、安房に逃れた頼朝は、同年10月房総・武蔵の軍勢を率いて鎌倉に入り、さらに駿河へ進出。景親は東国へ下向する平家勢と合流しようとして行く手をふさがれ、河村山に逃げ入る。景久は京都へ逃れたが、景親は黄瀬川在陣の頼朝に降参したとも、鎌倉突入の最終段階に六本松(鵠沼北東方、六会小学校西側))で頼朝軍と最後の激戦を交えたとも伝えられる。景親が囚われの身となり上総広常に預けられると、頼朝から景義に「助命嘆願をするか」と打診されるが、これを断り全てを頼朝の裁断に任せたという。結局、頼朝に命ぜられた兄の景義によって固瀬川辺で斬首されたことは既に前項に記した。頼朝の鎌倉入り源 頼朝は鎌倉に入るや、次々に武家政治の基礎固めと鎌倉の都市整備を行った。祖先の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請した八幡宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、京の朱雀大路に相当する段葛を中心軸に、幕府の中枢となる施設を整備していった。この遷宮に際して、御神体の引越しに采配を振るため大庭御厨伊介神社(神明宮)の巫女が呼ばれたことが吾妻鏡に記録されている。この神社が鎌倉近郷では最も格式の高い神社と認められていたと考えられる。それまで東国の一寒村に過ぎなかった鵠沼も、日本の政治中心地の上方(かみがた)側の隣接地として、急激に人々の往来が増えたに違いない。時には数千、数万の騎馬軍団が通過することもあった。 大庭御厨の下司職は、兄弟相争う熾烈な事態の末、御家人に迎えられた大庭景義に安堵されて存続した。 大庭御厨鵠沼郷は、おそらくこの時代に現在の本鵠沼地区まで拡大し、その状態のまま江戸時代までは続いたと思われる。本鵠沼の下ノ沢遺跡、藤原遺跡、八部遺跡からは鎌倉時代の遺物や集落遺構が発掘されている。 また、上方から鎌倉に入域する際、最後の交通上の障害は固瀬川(片瀬川)であった。この川には橋がなく、干潮を待って徒渡りか騎馬で渡ったであろうことは鴨長明の歌(第38話参照)にも出てくる。おそらく、固瀬川の大曲流の上流側に石上の渡しが設けられ、渡津(としん)集落の石上(砥上)が形成されたのも鎌倉時代であっただろう。記録では1285(弘安 8)年に石上郷が鎌倉の法華堂領となったと出てくる。 大庭氏の滅亡1193(建久 4)年に大庭景義は出家し、嫡男の大庭景兼が跡を継いだが、この段階で大庭氏は失脚し、大庭城は一時廃城となる。源氏を抑えて台頭してきた北條氏に対して起こした和田氏を中心とする御家人の反乱「和田合戦」で、和田氏側についた大庭景兼は、敗戦(おそらく戦死)し、所領大庭御厨は没収されて一時期北條氏が領した。 この段階で大庭氏は滅亡したとされてきたが、大庭景連が中国地方、備後の新庄本郷に地頭として任命され、1213(建保元)年、当地で築城し、 のち大場氏と称した。また、南北朝時代の騒乱時、石見国で起こった三角入道の乱において、精鋭部隊の一翼として子孫の大庭孫三郎が活躍した。 などの史実が報告されている。いずれにせよ、大庭氏は和田合戦の敗戦により相模国からは姿を消した。 伊勢神宮の権神主荒木田氏良が内宮一禰宣となり、大庭御厨は荒木田氏子孫が知行することになった。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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[参考文献]
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