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保元の乱源 義朝による大庭御厨の濫妨は、朝廷から不問に付される。大庭御厨の下司職は大庭景宗の子である大庭景義に譲られて存続した。1156(保元元)に鳥羽上皇の崩御を機に朝廷内で権力争いが起こる。保元の乱である。皇室では崇徳上皇と後白河天皇が、また摂関家では藤原頼長と忠通が対立していた。それぞれの陣営は源氏・平氏の武士を従え、激突する。源為義・義朝父子が戦ったこの合戦は後白河天皇側の大勝利に終わり、藤原頼長は戦死、源為義・平忠正は処刑され崇徳上皇も讃岐へ流されるという結果になった。 大庭景宗の子である大庭景義(長男)、景親(三男)兄弟は大庭御厨の濫妨事件をきっかけに義朝と従属関係を強くしたらしく、兄弟で義朝の配下として参戦、白河北殿の西門を守る源為朝に挑みかかり、「後三年の役で源義家のもとで戦った鎌倉景政の末裔である」と名乗りを上げた。強弓の勇者為朝は鏑矢を放ち景義の左の膝を砕いた。景親は落馬した兄を助け出して退散している。景義は負傷して以降歩行困難となり、実権は弟に移り、自らは懐島(茅ヶ崎市)に隠棲して懐島氏を名乗った。 平治の乱平治の乱(1159)後も源氏に通じたが、一時囚人となった景親は平家の計らいで助命され、その恩義で平家に属した。平清盛に名馬を贈り、東国の御後見を勤めた。また、一説では源平対立の中にあって兄弟で源平に分かれ、大庭氏の滅亡を防いだともいわれる。頼朝挙兵と大庭氏大庭景親は治承4(1180)年挙兵した以仁王、源頼政との戦いに動員され、平家の東国侍別当伊藤忠清に源頼朝謀反の企てを聞く。同年8月の頼朝挙兵の第一報は景親から清盛に届く。相模の平家勢の大将として弟俣野景久と石橋山で頼朝勢を破る。しかし、安房に逃れた頼朝は、同年10月房総・武蔵の軍勢を率いて鎌倉に入り、さらに駿河へ進出。景親は東国へ下向する平家勢と合流しようとして行く手をふさがれ、河村山に逃げ入る。景久は京都へ逃れたが、景親は黄瀬川在陣の頼朝に降参したとも、鎌倉突入の最終段階に六本松(鵠沼北東方、本町小学校西側))で頼朝軍と最後の激戦を交えたとも伝えられる。景親が囚われの身となり上総広常に預けられると、頼朝から景義に「助命嘆願をするか」と打診されるが、これを断り全てを頼朝の裁断に任せたという。結局、頼朝に命ぜられた兄の景義によって固瀬川辺で斬首された。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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