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天養記(官宣旨案)『天養記』とは、伊勢神宮に所蔵される1144(天養元)年9月及び10月に、源義朝が相模国の有力武士らと結んで伊勢大神宮領であった大庭御厨の押領を企てた事件に関するまとまった文書である。天養2年の官宣旨案2通のほか、伊勢祭主下文案などの神宮関係文書や関連する文書が貼り継がれている。12世紀中期における伊勢神宮領の成立の様相や関東武士団の成長と具体的な行動とを知る上での貴重な史料である。文中に「大庭御厨高座郡内鵠沼郷」が出てくるが、これが鵠沼が文書に記された最初の例(初出)である。 2006(平成18)年6月9日に重要文化財(古文書)に指定された。神奈川県史から官宣旨案の内容を引用する。 左弁官下す 伊勢大神宮司 大庭御厨の濫妨源 義朝は先祖から伝得したと称して鎌倉に居住していたが、俄に鎌倉郡内であることの理屈を設けて、俣野川を越えて大庭御厨の鵠沼郷に侵入し、供祭料掠奪 等の乱暴をはたらき、訴えが御厨の神人から、伊勢神宮太政官に出された。然し義朝及び目代等の乱行は止まず、多数の私財奪取の外、神人を殺害したので、又訴えられた。このように義朝は御厨を非合法荘園とみなすことに同調して、大庭氏の領主権を奪って御厨を事実上支配した。これに対し太政官は、天養2年、官宣旨を下して、糾弾して処分を定め、供祭物の備進等を命じている。義朝はこの頃、下総国相馬御厨でも千葉氏との紛争をおこしている。「保元の乱」では大庭氏も千葉氏も義朝側に味方しているので、義朝の威勢が圧倒していることを示しており、大庭景親兄弟も参戦している。義朝が「平治の乱」に敗れて殺害され、平氏政権が続くと、治承4年伊豆で挙兵した頼朝に対して、前記大庭兄弟の中で兄景義(能)は源氏に味方しようとし、弟の景親は現実の主君たる平氏に味方しようとして分裂した。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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