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第0034話 大庭御厨の濫妨

天養記(官宣旨案)

 『天養記』とは、伊勢神宮に所蔵される1144(天養元)年9月及び10月に、源義朝が相模国の有力武士らと結んで伊勢大神宮領であった大庭御厨の押領を企てた事件に関するまとまった文書である。天養2年の官宣旨案2通のほか、伊勢祭主下文案などの神宮関係文書や関連する文書が貼り継がれている。12世紀中期における伊勢神宮領の成立の様相や関東武士団の成長と具体的な行動とを知る上での貴重な史料である。
 文中に「大庭御厨高座郡内鵠沼郷」が出てくるが、これが鵠沼が文書に記された最初の例(初出)である。
 2006(平成18)年6月9日に重要文化財(古文書)に指定された。神奈川県史から官宣旨案の内容を引用する。

左弁官下す 伊勢大神宮司
 且つは度々の宣旨に任せ、その妨げを停止し、供祭物を備進し、且つは国司子細を弁え  申し、相模国田所目代源義朝並びに同じく義朝郎従散位清原安行、恣に謀計を巧らみ、大庭御厨高座郡内鵠沼郷を以て、俄に鎌倉郡内と号し、供祭料の稲米を運び取り、旁々 濫行を致すに応ずる事
右、祭主神祇大副大中臣清親卿の去る月十二日の解状を得て称く、大神宮禰宜等の同月日の解状をに称く、伊勢恒吉の今月七日の解状に称く、謹んで案内を検ずるに、当御厨は本より荒野の地なり。誠に田畠無きの由国判に見ゆるなり。而るに彼の国の住人故平景正、国判を相副え大神宮の御領に寄進するの刻に、永く恒吉に附属する所なり。即ち御厨の為に開発せしめ、供祭上分に備え進す。漸く年序を経るの間、在廰官人等の浮言に就いて、国司度々奏聞を経せしむの処に、宣旨、院宣等を本宮に下され、子細を召し問うの後、全く綸旨の停廃無きの上、両代の宰吏に問われ、彼の請文に就いて、殊に奉免の宣旨を下さるるの日、国祇承り散位平高政、同惟家、紀高成、平仲廣、同守景朝臣等地頭に臨み文書に任せ、堺の四至に傍示を打ち、立券を言上す。その四至と云うは、東は玉輪庄堺俣野川、南は海、西は神郷堺、北は大牧埼てへり。その最中高座郡内字鵠沼郷、今俄に鎌倉郡内と称し、事を彼の目代の下知に寄せ、義朝郎従清大夫安行並びに字新籐太及び廰官等、去年九月上旬の比、旁々濫行を致し、伊介神社の祝荒木田彦松の頭を打ち破り、死門に及ばしむ。訪行の神人八人の身を打ち損い、供祭料魚を踏み穢し、郷内の大豆、小豆等を苅り取る所なり。その旨を訴え申すの処に、本宮の解状、祭主の奏状すでにをはんぬ。而る間同十月二十一日、田所目代散位源朝臣頼清並びに在廰官人及び字上総曹司源義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明、中村庄司同宗平、和田太郎助弘、所従千餘騎、御厨内に押し入り、是非を論ぜず停廃せしむ所なり。爰に彼等の所帯する宣旨の状を承るの処に、更に御厨に入らざるの事、只指せる官省符新立の庄園に非ず。本庄の外加納の一色別符勘じ入るべきの由なり。また隣国他堺の高家若しくは悪僧等、乱入を停止すべきの状ばかりなり。仍って神宮の御領として尤も大悦なり。しかのみならず、当御厨に於いては奉免の宣旨限り有るの由、披陳すと雖も、敢えて承引無く、神人等敵対に及ばざるの間、同二十
二日
卯の時より始めて、在廰官人等郷々に押し入り、傍示を抜き取りをはんぬ。また御厨の作田玖拾伍町の頴肆萬七千七百伍拾束を苅る。下司家中の私財雑物悉く以て押し取り、神人紀恒貞、志摩則貞、国元、末永、重国、兼次等を簀に巻き死門に及ばしむ。或いは凌轢せらるる所なり。この外供祭料米農料出挙並びに甲乙輩の私物及び有事縁所宿置熊野僧の供米等百余斗を捌き、負人住人逃げ脱すの間、行方を知らず是非他なり。義朝と頼清と同意を成し、名代を出立するの由、御厨の定使井濱御薗検校散位藤原朝臣重親、下司平景宗等言上する所なり。その状に就いて案内を検ずるに、勅免の神領に於いては、縦え国衙より沙汰せしむべきの事有りと雖も、若しくは宣旨を申し下し、若しくは本宮使を相具して、進士せしむるの例なり。爰に当御厨の四至の内字殿原、香川郷、宣旨・代々の国判に背き、国役に充てしむるの事、度々彼の目代頼清朝臣に相触るの次いでに、上件子細の披露すでにをはんぬ。皆返報有って、御厨の事専入宣旨の状に有らざるの上、停廃すべきの由、殊に国の定め無しと云々ばかりなり。高座郡内を以て今俄に鎌倉郡内と称し、濫行を成さしむの條、玄隔たるの事に依って、彼等の所行を省みんが為に、惣所御厨を牢籠せしむか。茲に因って子細を熟察し、沙汰を致さんが為に、先ず国司に経訴するの処に、義朝濫行の事に於いては、国司の進士に能わず。停廃せしめんと擬するの事に於いては、在国を尋ね問い、左右すべきの由、返報せしむるに依って、暫く彼の裁許を相待つと雖も、事を左右に寄せ敢えてその沙汰無きの間、義朝乱行の事宣下せられすでにをはんぬ。然れば停廃の事と雖も、重ねて送達せられざれば、殿原、香川郷のその妨げ絶えざるか。就中国役を御厨田に伐ち充て、御厨田を宮寺の浮免を曳き成し、勘責いよいよ重なるの間、僅所に残る住人また以て逃げ脱すの由、下司重ねて言上するなり。重ねて案内を検ずるに、神宮御領を以て院宮御領と号し押し取らるるの時、本宮より子細を言上するの日、その妨げを停止すべきの旨、宣下せらるるの例、諸国に繁多なり。而るに今勅免の神領を停止し、宮寺の浮免を曳き成すの條、神事の不信不浄の基、何事か斯れに過ぐべきか。また先例を訪うに、職掌人を刃傷し、神人等を殺害し、供祭物を取り穢し、神民の貯えを奪い取るの輩は、贖罪の軽重、或いは法の科罪に任せ、或いは乱行人に解謝を致さしむる所なり。而るに彼等の所為、一つとして尋常ならず。先ず以て他郡を鎌倉郡内と号するの條、誠に矯餝の甚だしきなり。各々證文を召すの日、敢えて遁るる所無きか。しかのみならず、宣旨立券の時、祇承の官人、皆以て見在の輩なり。また庄園の宣旨を以て謀計を巧らみ、御厨を停廃せしむるの條、これ唯神威を蔑爾するのみならず、将に綸言に違背する所なり。然れば則ち義朝の乱行に於いては、宣下の旨に任せ沙汰を致さしむと雖も、猥に傍示を抜き取るに至っては、尤も厳制を加え、向後を懲らしめ、本の如く傍示を立てしめらるべきや。
また押し取る所の供祭上分料獲稲見米並びに所司住人の私物等、悉く糺返せらるべきや。
これ等の如きの所行、早く糺断せられずんば、神威の凌遅、諸国の狼藉、積習して倍増するものか。宮の廰裁を望み請う。且つは重ねて奏聞を経て、且つは早く牒を留守所に送り、糺行せられば、将に神威の不朽を仰ぎ、綸言の軽からざるを厳とするか。てへれば、解状に就いて覆審を加え、庄園の加納を勘がえ入るべきの由宣旨を以て、限り有る勅免の神領を停廃せしめんと擬すの條、神威を蔑爾するのみならず、すでに綸言を違乘するものか。
祭主の裁を望み請う。重ねて奏聞を経て、早く糺行せられてへり。仍って言上件の如く相副え天裁を望み請う。禰宜等の解状に任せ、早く糺行せられば、権大納言源朝臣雅定宣べ、勅を奉りて宣ぶ。度々の宣旨に任せ、その妨げを停止し、供祭物を備進し、兼ねてまた国司をして子細を弁え申さしめば、同じく彼の国に下知既にをはんぬ。宮司宜しく承知すべし。宣に依ってこれを行え。
  天養二年三月四日  大史中原朝臣(宗遠花押影)
少弁源朝臣(師能花押影)

大庭御厨の濫妨

 源 義朝は先祖から伝得したと称して鎌倉に居住していたが、俄に鎌倉郡内であることの理屈を設けて、俣野川を越えて大庭御厨の鵠沼郷に侵入し、供祭料掠奪 等の乱暴をはたらき、訴えが御厨の神人から、伊勢神宮太政官に出された。然し義朝及び目代等の乱行は止まず、多数の私財奪取の外、神人を殺害したので、又訴えられた。このように義朝は御厨を非合法荘園とみなすことに同調して、大庭氏の領主権を奪って御厨を事実上支配した。これに対し太政官は、天養2年、官宣旨を下して、糾弾して処分を定め、供祭物の備進等を命じている。義朝はこの頃、下総国相馬御厨でも千葉氏との紛争をおこしている。「保元の乱」では大庭氏も千葉氏も義朝側に味方しているので、義朝の威勢が圧倒していることを示しており、大庭景親兄弟も参戦している。義朝が「平治の乱」に敗れて殺害され、平氏政権が続くと、治承4年伊豆で挙兵した頼朝に対して、前記大庭兄弟の中で兄景義(能)は源氏に味方しようとし、弟の景親は現実の主君たる平氏に味方しようとして分裂した。
大庭御厨の濫妨    
西暦 和暦 記                        事
1144 天養 1 9 8 源義朝、大庭御厨に乱入。伊介神社の神人8人死傷、鵠沼郷の魚・大豆・小豆等を奪取
1144 天養 1 9 10 伊勢神宮禰宜ら、大庭御厨神人らから義朝乱入につき訴状を得る
1144 天養 1 9 29 祭主大中臣清親(1087-1157)、伊勢神宮禰宜より大庭御厨義朝乱入につき解状を得る
1144 天養 1 10 4 太政官、祭主大中臣清親より大庭御厨義朝乱入につき解状を得る
1144 天養 1 10 21 三浦一族千余騎で再度大庭御厨に乱入
1145 天養 2 1   源義朝、鎌倉より俣野川(境川)を越えて大庭御厨鵠沼郷に不法に侵入
1145 天養 2 2 3 左弁官、伊勢大神宮司へ大庭御厨乱入事件の首謀者源義朝の乱行停止・犯人逮捕を命ず
1145 天養 2 2 7 大庭御厨第2回目の乱入事件の解状、伊勢恒吉→神宮祭主
1145 天養 2 2 12 大庭御厨第2回目の乱入事件の解状、祭主大中臣清親→太政官
1145 天養 2 3 4 左弁官、伊勢大神宮司へ在庁官人らの乱行を停止するよう相模国司に命ずることを約束
1145 天養 2 3 4 太政官、天養記官宣旨を下して、糾弾して処分を定め、供祭物の備進等を命ずる
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

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