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第0005話 難読地名鵠沼

 「鵠沼」を「くげぬま」と読める方は日本人のうちどれぐらいおられるだろうか。
 藤沢市民の多くは読めるだろうし、首都圏でもある程度は知られているだろう。しかし、全国的に見ると、かなりな難読地名であることは間違いない。
 「鵠」は音読では「こく」あるいは「こう」であり、訓読みでは「くぐい」である。
 「鵠」の意味は中国では白い大きな鳥のことであり、「くぐい」はハクチョウの古語であるとされる。場合によってはコウノトリやツルだともいわれるが、ハクチョウ説を正しいとしたい。
 鵠の字は「鴻鵠之志」、「正鵠を射る」という場合に用いる例しか知らないが、後者の鵠は弓道の的の中央にある点のことだそうである。

 「鵠沼」という地名の初出は1144(天養元)年、伊勢神宮より出された『天養記(官宣旨案)』にある
「左弁官下す 伊勢大神宮司
 且つは度々の宣旨に任せ、その妨げを停止し、供祭物を備進し、且つは国司子細を弁え申し、相模国田所目代源義朝並びに同じく義朝郎従散位清原安行、恣に謀計を巧らみ、大庭御厨高座郡内鵠沼郷を以て、俄に鎌倉郡内と号し、供祭料の稲米を運び取り、旁々濫行を致すに応ずる事」
の件であるとされる。
 すなわち「鎌倉郡を治めていた源 義朝らが、大庭御厨高座郡内鵠沼郷を、ここは鎌倉郡内だとイチャモンをつけて荒らし回った」という箇所である。
 この当時の書物にはルビなど振られていないから、鵠沼郷をどう呼んでいたかは明かではない。
 1842(天保13)年に刊行された『新編相模國風土記稿』には「鵠沼村久久比奴末牟良」と万葉仮名の読みが記され、「くくひぬまむら」であったことが判る。あるいは「くぐいぬまむら」であったかも知れない。
 これが「くげぇぬま」と訛り、さらに「くげぬま」になったと考えられるが、いつの段階から正式地名と認識されるようになったかは、明確な資料に出合っていない。あるいは『新編相模國風土記稿』の時代には既に「くげぬま」と言われていて、「そもそもこれは「久久比奴末」だったのだよ」と、わざわざ読みを加えたとも思われる。

鵠の字体

 このサイトをwindowsXP以前のOSで読んでいる方は、「鵠」の偏が「告」であるのに対し、windowsVISTA以降のOSで読んでいる方は、偏が「牛」の下に「口」の字体となっているはずである(フォントによっては対応していない場合もある)。
 これは、JIS X 0213:2004の改正によるもので、『康熙字典』(こうきじてん)に準拠した国語審議会の答申「表外漢字字体表」に示されている字体に合わせたのだという。
 すなわち、偏が「牛」の下に「口」の字体が正字であり、それに合うよう修正したのである。
 今でも続いているかは確認していないが、鵠沼中学校では新入生の最初の国語の授業で偏が「牛」の下に「口」の字体が鵠の正字であることを教える伝統があったという(私は2年生で転校してきたので、経験していない)。鵠沼小学校でもそのように教えていると聞く。
 実際に街で見かける看板などでは、両者が混用されており、告偏の方が多いようだが、さすがに藤沢市の地名表示や、江ノ電、小田急などの駅名表示には伝統的に正字が用いられている。

ついでに

 藤沢市の地区名では「鵠沼」の他に「獺郷(おそごう)」という超難読地名がある。獺はカワウソのことで、日本ではニホンカワウソは、高知県の四万十川流域で1979年夏の目撃例が人間に目撃された最後の例となり現在では既に絶滅したと考えられている。そのニホンカワウソが、かつては獺郷でも生息していたのだろうか。
 旧小字名では、六会地区の「狼ヶ谷」、片瀬地区の「鯨骨(くじらっぽね)」がある。これら動物地名は、藤沢が自然豊かだった時代を遺しているといえよう。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 伊藤 節堂:鵠沼の「クグヒ」 - 『鵠沼』第12号(1983)
  • 富士  山:「鵠」について - 『鵠沼』第13号(1983)
  • 杉本 辰夫:鵠の字体について - 『鵠沼』第93号(2008)
 
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